有家村(読み)ありえむら

日本歴史地名大系 「有家村」の解説

有家村
ありえむら

江戸時代の村。現在の有家町の西半部、および西有家町の東半部にわたる村域であった。南は海に臨み、中央部を有家川が南流する。江戸時代は島原藩領の南目筋に属した。慶長一七年(一六一二)岡本大八事件に伴い、有家の信心会の会頭伊藤ミゲルとその弟マティアスが斬首刑に処されている(有家町郷土誌)。同一九年には幕府よりキリシタン詮議のため派遣された山口重弘は長崎、口之津くちのつ(現口之津町)のあと有家村・堂崎どうざき村、布津ふつ(現布津町)などで詮索したが、口之津と同様に宗門を改めないという者が三六人おり、召捕らえ、有馬城在番の鍋島家臣多久長門らに預け置いたという(耶蘇天誅記前録)。この頃、身分のあるアドリアンが背教を拒み、親戚や子供、友人らが自分たちにも責め苦が及ぶようなことをしないよう説得にあたったが応じなかったため、手の指、足の指を鋭い鉈で切落すなどの拷問を受けている(アビラ・ヒロン「日本王国記」)

日本イエズス会管区長マテウス・デ・コウロスは、江戸幕府のこうした禁教策のあとも布教を継続していることを証明するために証言文書を送っており、元和三年(一六一七)のイエズス会管区長宛のキリシタン連判書付には「有家村」の馬場内蔵丞流いす・池田七右衛門みけ流・原槙喜左衛門かすはる・古江源内あちりあん・中山九郎左はう路・後藤清右丸ち乃など、キリシタンの有力者と考えられる二〇名が署名している。

有家村
うけむら

[現在地名]河合村有家

小鳥おどり川右岸、北対岸は中沢上なかそうれ村・角川つのがわ村。集落のあるあたりは常に浸水のおそれのある低地で、軽租を認められた角川村の請所であったための地名と思われる。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳では小鷹利こたかり郷に属し、高二五石余。元禄検地反歩帳では高五〇石余、田三町一反余・畑八町六反余。「飛騨国中案内」では免三割九分二厘余、家数一四(うち百姓一二・門屋二)。天明八年(一七八八)の村明細帳によれば、家数一五、男五九・女四〇、農間稼は男は蝋・漆・楮を取り、紙を漉く。紙漉は今も盛んである。名主は古来角川村名主が兼帯していたが、万延元年(一八六〇)より専任名主がおかれた(「名主立置願」県立歴史資料館蔵)

有家村
うげむら

[現在地名]種市町有家・小子内おこない

北は種市村、南は有家川を境に中野なかの村、東は太平洋に面し、西は大野おおの(現大野村)。浜街道が通る。北に枝村の小子内村がある。光仁天皇の頃藤原有家なる者が流され、主従一二四人と船で階上はしかみ浦に上陸し、当地に住んだのが村名の由来と伝える(「斗賀観音縁起写」八戸市立図書館蔵)。有家館は同氏の居住していた所といわれ、有家神社の現祭神は市杵島姫命であるが、古くは藤原有家が祭神であったといわれている。

有家村
ありえむら

[現在地名]和歌山市有家

名草なくさ郡に属し、津秦つわだ村の北西にある。中世は北東に鎮座する日前国懸ひのくまくにかかす宮領有家郷の地で、永仁三年(一二九五)三月二三日の有家郷検田取帳並検畠取帳写(紀家蔵)によると、田地四七町一段一〇〇歩、畠地九町三段九〇歩で、坪名に「知和夜」「知和夜姫西」「有家寺」「北大日堂」「南大日堂西」などが記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報