種市村(読み)たねいちむら

日本歴史地名大系 「種市村」の解説

種市村
たねいちむら

[現在地名]種市町 八木北町やぎきたまち八木南町やぎみなみまち宿戸しゆくのへ戸類家へるけ小路合しようじあい緑町みどりちよう大町おおまち・一区―四区・小橋こばし伝吉でんきち麦沢むぎさわ大沢おおさわ滝沢たきさわ和座わざ鷹取たかとり住吉町すみよしちよう玉川たまがわ鹿糠かぬか川尻かわしり平内ひらない横手よこて角浜かどのはま城内じようないみどりおか町・大谷おおやなど

九戸郡の北東端に位置し、現町域の北半を占める。北西端に種市岳(階上岳)、西端に久慈平くじひら岳があり、東は太平洋に面する。北は三戸郡道仏どうぶつ(現青森県三戸郡階上町)など、西は上館かみだて(現軽米町)大野おおの(現大野村)、南は有家うげ村。古くは種一とも記された。種市岳を水源とする種市川(川尻川)、和座川の両川がそれぞれ東流して太平洋に注ぐ。この両川は当村をほぼ三等分した形となっている。南部を大浜おおはま川が東流する。浜街道がほぼ海岸線に沿って南北に通る。同街道は鹿糠から西向して城内に至り、同地で再び北上して三戸郡に至る道筋もある。鹿糠から西に向かい内陸部に通じる道は、ノソウケ(野僧家)街道とも称される。

正安三年(一三〇一)四月二六日のきぬ女類族交名案(新渡戸岩大文書)に「ひかしのかとたね一」とみえる。是川これかわ(現青森県八戸市)の安藤三郎の妻きぬ女は、東門ひがしのかど種市の牧士きとう四郎の姪であった。当地がいわゆる九戸・四門の制における東門にあたり、牧士との記述から馬産地であったことが知られる。建武元年(一三三四)六月一二日の北畠顕家御教書(遠野南部文書)に「久慈郡并東門」とみえ、同地が北条氏領として没収され新給人(おそらく二階堂行朝)に与えられることとなったが、遠隔地のため代官派遣もままならず辞退するに至っている。櫛引くしひき八幡宮(現青森県八戸市)の放生会の神役奉納の当番を定めた、正平二一年(一三六六)八月一五日の神役注文案(同文書)には「九番 九戸」とみえる。戦国期、南部家一族の流れを汲むという種市氏が種市城に居城し、天正一九年(一五九一)九戸政実の乱に際し南部信直にくみしたとされる。同城跡がある城内が当村で最も早く開かれた所という。種市中務光徳は南部信直から当村など六〇〇石を与えられたといわれる(「種市家系譜」種市家蔵)。文禄四年(一五九五)の南部信直書状(盛岡池野文書)によると、南部信直は秋田氏との祝言に先立って蔵普請を行ったが、当地などの村々に蔵用の敷板を賦課している。

正保国絵図に種市村とみえ高二七七石余。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳では田一石余・畑五二二石余。天保五年(一八三四)の南部領高辻帳による〆高は田一石余・畑四九〇石余。


種市村
たねいちむら

[現在地名]弘前市種市

岩木川に東面し、北はかつら村、北西は小友おとも村、南東青女子あおなご村、南西楢野木ならのき村に接する。

元和年中御家臣姓名大概(津軽史)の八三騎のなかに「百石 種市村市右衛門」とある。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡に村名があり、村高四七九・二石、うち田方は四三七・〇八石とある。寛文四年(一六六四)の高辻帳でも村高は変わらない。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、村高九〇三・〇六一石、うち田方七六四・六三一石、畑方一三八・四三石。田位は上田から下々田まであり、斗代は上田が一・三石と高い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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