日本歴史地名大系 「朝倉庄」の解説 朝倉庄あさくらのしよう 兵庫県:養父郡八鹿町朝倉庄八木(やぎ)川と円山(まるやま)川との合流点近くの南岸、朝倉付近にあった庄園。「但馬考」は網場(なんば)・舞狂(ぶきよう)・朝倉・米里(めり)・国木(くぬぎ)・小山(こやま)の六村を朝倉庄としている。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には「朝倉庄 三十六町五反」とみえ、「成勝寺領」「領家内大臣法印源助」「地頭長井因幡入道実円」の注記があり、庄田の内訳は仏神講田四町二反、領家佃二町、預所小佃二町、地頭給二町五反、惣追補使一町、定使給五反、徴使給一町二反、定田二三町一反(うち地頭雑免一町五反)である。成勝(じようしよう)寺は崇徳天皇の御願寺として京都岡崎(おかざき)(現京都市左京区)に建立された寺院で、当庄は皇室領の一。 朝倉庄あさくらのしよう 山口県:山口市下宇野令村朝倉庄山口盆地の北西、兄弟(おとどい)山南麓に比定される荘園。現京都市東山区の八坂(やさか)神社蔵の「祇園社記録」に「任永承文書、貞応二年為旬神供・長日大般若仁王経料所、被寄付周防国朝倉庄」とあり、貞応二年(一二二三)朝倉庄が京都祇園社に、旬神供・長日大般若仁王経料所として寄進されたことが知られる。また同書には「貞永元年、当庄被国領之時、為寄附河内国石川東条庄、可為永代不輸之神領、被宣下」とあり、貞永元年(一二三二)に至り、周防国衙領となり、東大寺造営料に組み込まれたことが知られる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by