朝倉郷
あさくらごう
「和名抄」高山寺本は「安左久良」、東急本も「阿佐久良」と訓ずる。「日本書紀」によると大化元年(六四五)八月五日に東国の国司が任命され、翌二年三月一九日にはその功過の評定が行われている。上毛野の国司に任命された紀麻利耆
臣は「人を朝倉君・井上君、二人の所に使りて、為に其の馬を牽き来しめて視たり。復、朝倉君をして、刀作らしめたり。復、朝倉君の弓・布を得たり」ということで譴責を受けている。一方、朝倉君は「天皇に順ひ奉れり。朕、深く厥の心を讃美む」とある。朝倉君は上毛野君の一族とみられる。「万葉集」巻二〇諸国防人等の歌のなかに上野国防人朝倉益人の名がみえるが、朝倉君の関係者ではなかろうか。
朝倉郷
あさくらごう
「和名抄」高山寺本・流布本ともに「朝倉」と記し、流布本のみ「安佐久良」と訓ずる。頓田川の上流一帯を占める地域で、現越智郡朝倉村全域に比定される。応長二年(一三一二)三月日の大山祇神社々殿造営段米奉納状(大山積神社文書)に「朝倉郷 十一石六斗五合」がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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