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上野国 こうずけのくに

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

上野国
こうずけのくに

現在の群馬県東山道の一国。もと下野国とともに毛野国と称したが,のち上下に分かれ,上毛野 (かみつけぬ。上毛とも略する) となり,さらに「こうずけ」となった。古墳群の多いことから,大きな政治勢力のあったことが知られ,また上野三碑などから,高度な文化をもっていたことがわかる。

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百科事典マイペディアの解説

上野国【こうずけのくに】

旧国名。上州とも。東山道の一国。今の群馬県。もと毛野(けぬ)国,のち上毛野(かみつけぬ)・下毛野(しもつけぬ)両国に分かつ。壮大な古墳多く,《延喜式》に大国,14郡。
→関連項目板鼻岩鼻関東地方群馬[県]新田荘沼田藩

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

こうずけのくに【上野国】

現在の群馬県のほぼ全域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東山道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の前橋市元総社(もとそうじゃ)町、国分寺は高崎市と前橋市の境におかれていた。当地の岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で、日本初の旧石器時代遺跡が発見された。1108年(天仁(てんにん)1)の浅間山(あさまやま)の噴火による火山灰で田畑が荒廃したが、再開発され新田荘(にったのしょう)など多くの荘園(しょうえん)が成立した。鎌倉時代末期には新田義貞(よしさだ)の地盤となった。南北朝時代以後は上杉氏守護となったが、戦国時代には上杉氏、武田(たけだ)氏、後北条(ごほうじょう)氏らの争いの地となった。江戸時代は幕府直轄領、譜代領、旗本領などが入り交じり、末期には9藩が分立していた。1871年(明治4)の廃藩置県により群馬県と栃木県となり、1873年(明治6)に群馬県は入間(いるま)県と合併し熊谷(くまがや)県となった。ついで、1876年(明治9)に栃木県より旧上野地域を編入、入間県の旧地を埼玉県に移管、県名を群馬県に戻した。◇上州(じょうしゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

こうずけのくに【上野国】

旧国名。上州。現在の群馬県のほぼ全域。
【古代】
 東山道に属する大国(《延喜式》)。かつて関東平野北西部は毛野(けぬ)と呼ばれていたが,古代国家の形成される中で渡良瀬川を境に上・下に分けられて西部が上毛野(かみつけぬ)と称されるようになり,律令制の施行に伴い上野国と表記されるようになった。官道の東山道は信濃国から碓氷坂を下って関東平野に入り,当国から東進して下野国を経て陸奥国に至る。つまり畿内と蝦夷の地域を結ぶ要路の関東平野への出入口を扼(やく)する位置にあった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

上野国
こうずけのくに

群馬県域の古代国名。俗称上州(じょうしゅう)、上毛(じょうもう)。北関東一帯は古く「け」または「けぬ」とよばれていたが、5世紀ごろ「かみつけぬ」(上毛野)、「しもつけぬ」(下毛野)に分かれたという。大化改新の国司制のあと、国名は2字に統一されて「上野」と書き、音便で「こうづ(ず)け」となった。国内には旧石器文化発見の端緒となった岩宿(いわじゅく)遺跡のほか、縄文、弥生(やよい)文化にも特色がみられるが、古墳は約1万基の存在が推定され、その規模、副葬品などから古代東国文化の中枢であったことが知られる。上毛野(かみつけぬ)氏の一族が栄え、律令(りつりょう)制下には碓氷(うすい)、吾妻(あがつま)、利根(とね)、勢多(せた)、群馬(くるま)、片岡、多胡(たご)、緑野(みどの)、甘楽(かんら)、山田、那波(なは)、佐位(さい)、新田(にゅうた)、邑楽(おはらき)の14郡を管する上国(のち親王任国、大国)で、東山道に属し、官牧9を数え、蝦夷(えぞ)政策の前進拠点であった。国府は前橋市元総社町付近と推定され、近くに国分寺跡、総社神社がある。式内一宮(いちのみや)は貫前(ぬきさき)神社、建郡記念の多胡碑(たごのひ)など上野三碑が有名。10世紀前後からは律令(りつりょう)制の緩みに乗じて各地に武装集団が興り、下総(しもうさ)の平将門(まさかど)は上野国府に入って新皇と称した。これを鎮定した藤原秀郷(ひでさと)や奥州平定に功をあげた源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)父子以来、上野国は関東武士の拠点となり、とくに義家の孫義重(よししげ)は新田荘(にったのしょう)を開いて新田氏を称し、その一族はもっとも有力であった。本統から出た義貞(よしさだ)は建武新政に活躍したが、その後一族は分裂し、岩松(いわまつ)氏だけが金山(かなやま)城(太田市)によって伝領した。室町時代の上野は関東管領(かんれい)上杉(うえすぎ)氏の守護国で、白井(しろい)城(渋川市)の長尾(ながお)氏が守護代であったが、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)に次いで、15世紀以降は永享(えいきょう)の乱、上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱など足利一族の抗争や上杉氏、長尾氏の対立、離反が相次ぎ、関東動乱の渦中に入った。こうして16世紀なかば上杉憲政(のりまさ)が越後(えちご)(新潟県)に追われたあと、上野国は北条、武田、上杉3氏の攻防の焦点となったが、一時織田の部将滝川一益(たきがわかずます)の厩橋(うまやばし)(前橋)入城を経て、北条氏にほぼ制圧された。しかし北条氏も沼田真田(さなだ)氏との領域協定を破ったため、1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉に攻められて滅び、ようやく関東の動乱が終わった。
 近世に入ると上野国は江戸城北辺の守りとして、井伊(いい)(高崎)、榊原(さかきばら)(館林)、酒井(前橋)など譜代(ふだい)の重臣が配備された。徳川家康が新田一族(徳川氏)の後裔(こうえい)と称したことから、太田に大光院(義重の菩提(ぼだい)寺)を開き、世良田(せらた)(新田郡尾島町)の長楽寺(開山栄西(えいさい))を復興した。藩はその後変転して幕末には前橋(17万石)、高崎(8万2000石)など9藩となったが、大半は譜代小藩で、それに天領、旗本領が交錯していた。元禄(げんろく)期(1688~1704)の総石高は約60万石。生業は畑作が主で、とくに養蚕業は古い伝統をもち、桐生(きりゅう)のほか伊勢崎(いせさき)、藤岡の絹織物が有名であった。安政(あんせい)の開港(1854)後は輸出生糸が空前の活況を呈した。そのほか煙草(たばこ)、麻、硫黄(いおう)、砥石(といし)などが特産であった。江戸を控えて国内には中山道(なかせんどう)、三国(みくに)街道などのほか脇(わき)往還も多く、利根(とね)川も廻米(かいまい)、商荷の輸送動脈であった。大被害を受けた天明(てんめい)の浅間焼け(1783)前後から農村の疲弊が進み、絹運上反対騒動や世直し一揆(いっき)が各地に起こった。幕末には各藩とも借財を抱え、幕府への去就に苦しんだが、1867年(慶応3)東山道総督の東下に服し、戊辰(ぼしん)の年には小栗忠順(おぐりただまさ)の処刑、三国、戸倉での対会津戦などの悲劇があった。大政奉還後、9藩のほか、旧幕府領をあわせて岩鼻県が置かれたが、1871年(明治4)廃藩置県で第一次群馬県(東毛三郡を除く)が誕生、ついで73年熊谷(くまがや)県となり、さらに76年旧上野国を県域として現群馬県が成立した。県庁は当初高崎、のち前橋となった。[山田武麿]

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世界大百科事典内の上野国の言及

【両毛地方】より

…関東地方北西部の地域名。広義には古代に毛野(けぬ)と呼ばれた範囲を指し,現在の群馬県全域と栃木県南部にあたる。この地域はのちに上毛野国(奈良時代以降の上野(こうずけ)国),下毛野国(下野(しもつけ)国)に分かれたことから,両毛地方の名が使われるようになった。狭義には群馬県南東部から栃木県南西部にかけての東西に長い地域を漠然と指し,JR両毛線とこれに連絡する東武鉄道各線の沿線一帯にあたり,現在ではこの使い方が一般的である。…

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