上野国(読み)コウズケノクニ

デジタル大辞泉 「上野国」の意味・読み・例文・類語

こうずけ‐の‐くに〔かうづけ‐〕【上野国】

上野

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日本歴史地名大系 「上野国」の解説

上野国
こうずけのくに

東は下野国、北は陸奥国と越後国、西は信濃国、南は武蔵国と接する。近世には武蔵との国境は東部はほぼ利根川を境にしたため、洪水による流路変更などで度々境相論が起こっている。また西部は元禄国絵図に国境線が落ちていたために一時帰属不明となり、元禄一五年(一七〇二)神流かんな川南の峰切で画定される。同川下流も国境線となっていたため、流路変更に伴う境相論が起こっている。

古代

〔上毛野君〕

北関東一帯は古くはケ(毛)、ケヌ(毛野)の国といわれた。「国造本紀」には仁徳天皇の頃に毛野国を上・下二ヵ国に分けたとある。古名については蝦夷の住んだ地とか、「魏志倭人伝」に伝える狗奴くぬ国にあてる説がある。上毛野国を統括したのは上毛野君である。「日本書紀」には祖先について次のように載せる。崇神天皇の皇子豊城命に東国を治めさせ、上毛野君・下毛野君の始祖となった(崇神天皇四八年条)。その子八綱田を遠祖とする(垂仁天皇五年条)。その子彦狭島王を東山道一五国の都督に任命したが、赴任の途中病死したため、東国の百姓がその屍を盗み上野国に葬った(景行天皇五五年条)。翌年に御諸別王は父業を継ぐため東国を治め、蝦夷を鎮定してその子孫は東国に繁栄している。さらに上毛野君の祖荒田別・鹿我別は、将軍として朝鮮半島に渡り新羅を破り、百済を服属させ(神功皇后四九年条)、また、荒田別らは百済に派遣され王仁を連帰っている(応神天皇一五年条)。上毛野君の祖竹葉瀬(荒田別の子)は新羅の欠貢の問責使に派遣されたが、途中白鹿を捕らえて天皇に献上、日を改め弟田道を同行させ新羅を破って四邑の民を連帰り(仁徳天皇五三年条)、引続き田道は蝦夷と戦い敗れ戦死した。

これら上毛野君の祖先に関する記述は、仁徳天皇以前のこととされ、人名の上に上毛野君の始祖・遠祖・祖と付記されている。その後安閑天皇元年条まで上毛野君に関する記事は見当らない。初めに表れるのは上毛野君小熊で、次いで上毛野君形名である。形名は蝦夷平定に赴き、妻の機転で敗戦を逆転させている(舒明天皇九年条)。天智天皇二年(六六三)条では上毛野君稚子が前将軍として兵二万七千を率いて新羅に出兵し、戦功をたてている。天武天皇一〇年(六八一)には、川島皇子らに国史編纂事業を命じているが、臣下の筆頭に上毛野君三千の名がみえる。天武天皇一三年に八色姓が制定されるが、上毛野氏一族のもの六名が朝臣を賜姓されている。六世紀後半から七世紀前半にかけて、各氏族が系図や氏族の歴史編集の傾向に応じて、上毛野君も始祖豊城命、崇敬神赤城を求めだし、崇神天皇と結びつけたものと思われる。

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改訂新版 世界大百科事典 「上野国」の意味・わかりやすい解説

上野国 (こうずけのくに)

旧国名。上州。現在の群馬県のほぼ全域。

東山道に属する大国(《延喜式》)。かつて関東平野北西部は毛野(けぬ)と呼ばれていたが,古代国家の形成される中で渡良瀬川を境に上・下に分けられて西部が上毛野(かみつけぬ)と称されるようになり,律令制の施行に伴い上野国と表記されるようになった。官道の東山道は信濃国から碓氷坂を下って関東平野に入り,当国から東進して下野国を経て陸奥国に至る。つまり畿内と蝦夷の地域を結ぶ要路の関東平野への出入口を扼(やく)する位置にあった。管下には碓氷,片岡,甘楽(かんら),多胡(711建置。多胡碑),緑野(みどの),那波,群馬(くるま),吾妻,利根,勢多,佐位,新田,山田,邑楽(おはらき)/(おうら)の14郡があり上国であったが,811年(弘仁2)に大国となり,826年(天長3)には上総・常陸国とともに国守には親王が任ぜられるようになった。国府は前橋市元総社町付近に置かれたと推定され,その北西方には国分二寺がある。

 国内には4~8世紀初めに8400基以上の古墳が築かれ,5世紀代には東日本の政治的中心地となっていた。また6世紀後半の古墳の副葬品には中国,朝鮮,九州からの出土品と共通のものがあって,これら各地との関係が察せられ,上毛野が古代国家の形成に深くかかわり合っていたことがうかがえる。これはここを本貫地とする上毛野氏の始祖が崇神天皇の皇子で東国統治を分担した豊城入彦命とされ,その子孫も朝鮮や蝦夷の地域での軍事活動の中心になったとする一連の伝承にも示されている。上毛野氏は君姓から朝臣姓となり,中央の官人にも進出して軍事,外交,修史などに活躍をする。この有力な地方豪族は畿内の政権と緊密な関係をもち,その政治力と軍事力をもって関東地方北西部の社会的安定を確保する役割を負っていたとみられる。国内の南西部には渡来系氏族の居住も多く山ノ上碑(681),金井沢碑(726)など仏教関係の古碑があり,7世紀後半には寺院が営まれ,奈良時代には豪族層の間に仏教信仰が及んでいたことが知られる。また平安時代初めには緑野寺が最澄による東国教化の中心とされ,この寺の一切経が坂東諸国で写経されるなど,仏教活動が盛んであった。一方《延喜式》によると9ヵ所の御牧から毎年計50頭の馬が貢進され,さらに官馬45頭が飼育されており,朝廷・中央政府の必要とする馬の供給地でもあった。9世紀には,国内に馬を雇って物資を運送する業者の集団である僦馬(しゆうば)の党が横行し,その活動範囲は東海道にも及んで,物資の輸送にも支障が生じ律令支配の根幹を揺るがせた。このような私的な馬を介在とした武力の伝統は,要地に位置することと相まって坂東における武士団の形成に影響を与えた。またこの地の人々にとって戦火にもまして自然の怒りは恐ろしいものであった。浅間山は685年(天武14),1108年(天仁1)に,榛名山は古墳時代後期に大噴火を起こし,多量の石と灰を降らせたが,このために田畑や水路が埋没して生産力は打撃を受け,その回復は容易ではなかった。
執筆者:

平安時代末期の1108年浅間山が大爆発し,上野国中央部~東部に大量の火山灰を降らせ,この地域の田畑は壊滅的打撃を受けた。12世紀には,この荒廃公田の再開発が行われ,開発地が私領として中央権門に寄進されることによって荘園がいっせいに成立してくる。噴火後まもなくの1119年(元永2),国内5000町歩の地が摂関家に寄進され立荘されようとしたとき,白河法皇はあまりにも広大で,その中に賀茂斎院の禊祭に使うベニバナの産地があるとの理由で停止を命じた。しかし,その後表のように荘園(御厨を含む)が相次いで成立する。このほか,成立年次は不明だが,伊勢神宮領邑楽御厨(邑楽郡),長講堂領拝志(はやし)荘(渋川市),六条院領菅野荘(甘楽郡),佐貫荘(館林市,邑楽郡),大室荘(前橋市),三原荘(吾妻郡)などがある。このような荘園の開発領主として武士(在地領主)が各地に根をおろした。淵名荘の開発に関係すると推定される女堀という巨大な用水堀が,前橋市石関町から伊勢崎市の旧東村西国定まで12kmにわたって掘られたが,なんらかの事情で工事途中で中断し,現在遺構が残っている(国指定史跡)。

治承・寿永の内乱期に源頼朝に属した上野武士は鎌倉御家人,荘郷の地頭として各地に根をおろした。新田荘の新田義重とその子孫は,荘内に世良田氏・岩松氏,西上野に里見氏・山名氏などの庶家を分出し,上野でもっとも優勢な一族となった。そのほか,御家人としては大胡氏,山上氏,薗田氏,高山氏,小林氏,佐貫氏や,大江広元の一族那波氏などがある。内乱期に上野に支配力を及ぼしていた秀郷流藤原姓の足利氏が滅亡し,その跡を追って安達氏が守護として入部してきた。安達氏は玉村,片山,飽間,白井,岡本氏などを家臣として,上野の支配を行ったが,1285年(弘安8)に執権北条貞時の臣平頼綱と争い滅亡した(弘安合戦)。これ以後,上野守護は北条得宗家のものとなり,安達氏関係所領には,北条氏や幕府の関係者が地頭に任命された。また1221年(承久3)に世良田義季は,栄朝を新田荘世良田に招いて長楽寺を建立した。以後長楽寺は関東の有力禅院として繁栄した。

 1333年(元弘3)楠木正成が河内に反幕府の蜂起をすると,その軍事費支弁の目的で,有徳銭(うとくせん)(富裕税)の徴収のため世良田に入部した北条氏の家臣は,新田義貞とトラブルを起こして斬られ,これをきっかけに義貞は生品(いくしな)明神で挙兵し,越後,上野,武蔵などの軍勢を率いて鎌倉を攻め,北条氏を滅ぼす。幕府に代わった後醍醐天皇の建武政府の中で,新田義貞は上野,播磨,越後の国司(守護兼帯)となり,六波羅探題を滅ぼした足利尊氏とともに,二大勢力の一方を形成したが,やがて尊氏と後醍醐天皇との対立が明確になると,天皇方(南朝)に属して各地を転戦し,38年(延元3・暦応1)に越前藤島で戦死する。これに先んじて上野を制圧した足利方は,上杉憲房を上野守護に任じ,多くの武士は上杉氏に服し,義貞なき新田荘は新田義兼の女と足利義純の間に生まれた時兼を祖とする新田岩松氏によって継承された。一方,南北朝内乱の初期において,足利方の優位が決定的となった14世紀中葉に,足利氏内部に尊氏と直義を二つの頂点とする勢力の対立が起こり,51年(正平6・観応2)観応の擾乱(じようらん)が起こる。まもなく直義は殺されるが,直義党の上杉憲顕らは南朝方の新田義興・義宗と結んで蜂起し,尊氏方と戦い(武蔵野合戦),敗北して越後に逃れる。尊氏は宇都宮氏綱を上野・越後の守護に任命し,宇都宮氏は約10年間上野・越後を支配するが,上杉氏と結ぶ在地武士の反抗で支配は安定しなかった。やがて63年(正平18・貞治2)鎌倉公方足利基氏の要請で上杉氏は関東に復帰し,宇都宮氏綱を圧迫して上野守護となる。南北朝内乱期には上野の中小国人は上野国白旗一揆,藤家一揆などとして活躍した。80年(天授6・康暦2)以降,関東公方や上杉氏の抑圧に抗して下野の小山義政が反乱を起こすと,白旗一揆は小山攻めに参加して活躍している。

14世紀末に小山義政の乱を鎮圧したのち,上杉氏の守護国は上野,武蔵,伊豆,上総,下野(のちに返還)の5ヵ国に増大し,関東管領として揺るぎない地歩を築いた。上野はこの上杉氏のもっとも重要な基盤であった。上杉氏は,八幡荘や長野郷,大胡郷などの上野中央部の所領をはじめ,各地に散在の所領を家臣に預け置き,被官の長尾氏を守護代に任命して国内の支配をゆだね,各地の国人を上州一揆として再編成して軍事力の基盤とした。その実力は,上杉禅秀の乱,永享の乱,結城合戦などで発揮され,ついに鎌倉公方足利持氏を打倒する。禅秀の乱は山内,犬懸両上杉氏の内部抗争であるが,新田岩松満純は犬懸上杉氏憲(禅秀)に味方して誅殺されてしまう。1454年(享徳3)再興された鎌倉公方足利成氏は上杉憲忠を誅殺し,ここに公方・管領をそれぞれの頂点として,関東の諸勢力は二つに分かれて相争う(享徳の乱)。この乱は78年(文明10)まで4分の1世紀にわたって行われ,上杉方は惣社,白井,鎌倉(のちに足利)の三長尾氏や上州一揆,武州一揆に支えられて,上野や武蔵を押さえて,下総古河を拠点とし,小山氏,結城氏などの下野,下総の伝統的豪族に支えられた足利成氏(古河公方)に対抗する。この間,新田岩松持国は,当初成氏方に立ち,のちに上杉方に寝返るが,やがて上杉方の新田岩松家純によって滅ぼされ,家純は新田荘を回復して金山城を築城する。この内乱の過程で,古河公方,上杉氏ともに勢力は衰え,各地に勢力を結集した戦国領主(小大名)が成立する。三長尾氏や新田岩松氏を下剋上によって克服した横瀬氏(由良氏),上州一揆の中から頭角をあらわした長野氏などである。

享徳の乱やそれに続く山内上杉氏と扇谷上杉氏の内紛を前史として,東国は徐々に戦国動乱の様相を帯び,南からは小田原の後北条氏の勢力が北上してくる。このような状況の中で,戦国動乱の本格化は,1560年(永禄3)の長尾景虎(上杉謙信)の関東出陣である。上杉憲政の跡を継いだ謙信は,三国峠を越えて関東に侵入すると,上野を押さえて拠点とし,以後関東は,後北条,武田,上杉の三つどもえの争覇の時代となる。北条氏の圧力に危機感をいだいていた上野,下野,北武蔵などの諸勢力は謙信に属して後北条氏と対抗する。やがて信濃を制圧した武田信玄は吾妻方面に侵攻し,66年箕輪城を攻略して長野氏を滅ぼし,西上野を手中に収めた。これに脅威を感じた上杉氏は69年に後北条氏と越相同盟を結び,武田氏に対抗した。このとき上野は上杉,武蔵は後北条という国分(領土画定)を行った。78年(天正6)上杉謙信が没すると,その跡をめぐって景虎,景勝の2人が争う御館の乱が起こり,景勝が勝利すると景虎派に属した厩橋(まやばし)城の北条(きたじよう)氏などは上杉氏と関係を絶つ。武田氏も82年織田氏に攻められ滅亡すると,織田の武将滝川一益が一時厩橋城に入って上野の支配を行うが,本能寺の変で織田信長が殺されると,後北条氏によって神流川(かんながわ)合戦で追われる。おもな敵対勢力の解消によって後北条氏はますます勢力を拡張し,84年厩橋の北条氏や新田金山城の由良氏などを降伏させ,上野の支配権をほぼ確立した。武田氏の武将として沼田に入り,武田氏滅亡後独立した真田昌幸は,後北条氏に対立していた。織田信長を継承した豊臣秀吉は後北条氏の服属上京を促すとともにこの間を調停し,真田氏の沼田城退去を条件にその他の真田領の保全を約束させた。ところが後北条氏が真田氏に属する名胡桃(なぐるみ)城を奪取したことから,惣無事令(私戦禁止令)違反を理由として全国に動員令を発し,90年に大挙関東に侵攻して後北条氏を滅ぼした。上野では,後北条方は松井田城に大導寺政繁らを配して抗戦したが,前田利家,上杉景勝,真田昌幸らの東山道軍に撃破され,上野の諸城も相次いで陥落して,ここに戦国争乱と中世在地領主の時代は終焉となる。
執筆者:

小田原の落城後,徳川家康は豊臣秀吉から後北条氏の旧領を与えられ,1590年8月1日江戸城に入城した。世にいう江戸御打入りで,ここに関東は100余年にわたる戦乱に終止符を打ち,やがて関ヶ原の戦を経て1603年(慶長8)江戸幕府開設という新たな歴史段階を迎えた。江戸城に入った家康は榊原康政を総奉行として直ちに関東の知行割に着手した。上野国は江戸城北辺の外郭に当たる防衛線であったから,とくに家康側近の重臣を配置した。まず徳川四天王の井伊直政を榛名山東南麓の箕輪城12万石に封じて信越両国に備え,榊原康政を館林城10万石に封じて常陸の佐竹氏や東北に備えたのをはじめ,平岩親吉を厩橋城3万3000石,奥平信昌を宮崎城(のち小幡)2万石など,万石以上11氏を戦国以来の要城に配備した。初期の諸侯はその後いくたびか改廃があり,中期以後は前橋,高崎,館林,沼田,安中(以上,城持),小幡,伊勢崎,七日市,吉井(以上陣屋)の9藩が幕末までつづいた。これらの諸藩は大半が譜代で,藩主の交替や所領の移動がはげしかった。前橋藩では関ヶ原の戦後酒井氏が入封,2代忠世,4代忠清はともに老中,大老職となり,所領高も関東譜代筆頭の15万石(幕末17万石)となった。とくに忠清は下馬将軍の名で知られる。箕輪の井伊氏は高崎に移城したあと近江に転じ,以後高崎藩は藩主の交替6回,館林藩では榊原氏が陸奥白河に去ったあと,一時徳川綱吉が入封するなど6氏が交替した。幕府直轄領は,初期には桐生周辺や西南部の国境にまとまっていたが,中期以後は旗本領に分散し,旗本の数は延べ400名をこえた。こうした支配体制の錯綜は上野の近世史に大きな影響を与えた。

近世の統一後,上野国でも新田開発が活発になった。戦国期末,大谷休泊による休泊堀(邑楽郡)や,長野氏による長野堰(高崎市)の開削があったが,江戸期では1604年総社藩主秋元長朝による天狗岩堰が有名である。利根川の水を引くこの用水は,さらに代官伊奈忠次によって延長され,新田2万7000石を得た。東毛では代官岡上景能(おかのぼりかげよし)が渡良瀬川の水を引いて,笠懸野に二十数ヵ村の新田を開いた。元禄郷帳の上野国総石高は59万1000石余,村数1213を数える。しかし上野は全体に山地が多く,また田畑の割合は1対3であった。このため農業は畑作が主で,とくに養蚕業は古代以来の伝統をもち,近世初めに仁田山絹(桐生周辺),日野絹(藤岡付近)の名が知られていたが,中期以後絹需要の増加に伴って主要産業となった。東毛では西陣技術の導入による桐生織物伊勢崎織物を中心に,製糸業も地域的に分化し,幕末には問屋制生産も現れたが,西毛では各農家による生絹の一貫生産が特徴であった。特産物としてはほかに甘楽・吾妻郡下の麻,甘楽・沼田のタバコ,北毛の木材・炭・豆類など,さらに白根・草津の硫黄・明礬(みようばん)・湯の華,甘楽郡砥沢のといしなどがあげられる。といしは幕府御用といしの特権をもち,硫黄・明礬も幕府が統制していた。なお江戸に出て薪炭の巨商となった塩原太助は利根郡の出身である。

上野国は江戸をひかえて街道が発達し,中山道(7宿)をはじめ,高崎から越後に通ずる三国道(15宿),倉賀野から分かれて日光に至る例幣使街道(5宿),それに足尾鉱山の御用銅を運び出す銅山街道などがあった。また商品流通が盛んになると信州や会津への脇往還が国境の各地に発達した。信州の中馬も中山道を倉賀野まで活動した。利根川の舟運も近世初頭から開かれ,年貢米や塩・干鰯(ほしか)など商品輸送の動脈となり,沿岸には倉賀野,五料,平塚など多くの河岸が発達した。なお関所は碓氷関,猿ヶ京関など15を数え,全国の3分の1が上野に集中している。

近世の後半は全国的に体制不安がひろがる。上野では1783年(天明3)浅間山の噴火によって吾妻川流域を中心に死者2500人余を数え,降灰による作物被害は上野の大半に及んだ。この前後から農村の疲弊がひどくなり,間引きや離村,荒地などが増えた。諸藩は郷蔵貯穀や小児養育積金制度などを設けて救済復興につとめたが,効果はうすかった。生活に窮した農民の一揆も各地で頻発した。前期に沼田藩の暴政に抗した磔茂左衛門の直訴事件があったといわれるが,後期には1764年(明和1)助郷に反対した伝馬騒動天狗騒動),81年の絹一揆など,運動は広域化し,天明飢饉につづく天保や慶応の一揆は世直しの傾向をもっていた。国定忠次など博徒の横行もこうした時代背景の所産といえよう。

地域文化の特質をみると,儒学は前橋藩の好古堂(1691)など諸藩の藩校が中心であったが,藩主の交替がはげしいため発展はなかった。わずかに伊勢崎・安中藩の郷学や,安中藩主板倉勝明の《甘雨亭叢書》刊行が特筆される。儒学者では湯島聖堂の学頭になった市河寛斎や折衷学派の亀田鵬斎があり,国学では橘守部が桐生商人に師事されて,その門下に万葉学者橋本直香や黒川真頼が出た。越後柏崎で一揆を起こした生田万は館林藩士の出である。このほか養蚕指導書《蚕養育手鑑》(1712)を著した馬場重久や渋川の吉田芝渓など農学の先達があり,関孝和が出たので和算も盛んであった。蘭医学では種痘の村上随憲,帝王切開を創始した伊古田純道,脱獄した高野長英をかくまった福田宗禎らをあげることができる。宗教の面では徳川家康が新田義重の菩提のため太田に大光院を開き,世良田の長楽寺に天海を派遣するなど,みずからの遠祖と称する新田徳川氏の供養につとめ,また前橋妙安寺から親鸞木像を東本願寺に遷座させた。黄檗宗の少林山(高崎市)は達磨寺の寺号にちなんで,幕末から福だるまの風習を生んだ。なお近世初期,沼田,鬼石などは関東キリシタンの潜伏拠点であった。

安政の開港は,幕末の苦悩する上野に転機を与えた。糸価は維新までに約6倍に暴騰し,伝統の蚕糸業界はにわかに活況を呈した。いち早く横浜に進出する貿易商人も十指をこえたが,その先鞭をつけた中居屋重兵衛,のち業界に君臨した茂木惣兵衛などはその代表である。前橋藩も幕末から領内生糸の統制にのり出し,1869年(明治2)藩営直売所を横浜に設け,翌年洋式器械製糸所を前橋に開設した。開港で桐生の織物業界は原料糸の不足で打撃を受けたが,製糸業者は巨富を積み,この活況が明治以降の県勢を発展させた。しかし幕末の上野諸藩はいずれも累年の借財をかかえ,しかも幕府の危機に譜代藩としての去就に苦悩した。そのなかで1864年(元治1)の天狗党の乱での水戸天狗党の上州通過の阻止(下仁田戦争)や,慶応の世直し一揆,新田満次郎らの勤王運動への対応があり,前橋藩主松平直克は朝幕間の調停に奔走しつつ,東下する東山道総督に服した。諸藩もほぼ同じ道をたどったが,館林藩は長州藩との縁もあって勤王に積極的であった。戊辰の年には幕府の勘定奉行を辞した小栗忠順(ただまさ)が,群馬郡権田の隠棲地で処刑され,前橋藩以下の諸藩兵が三国,戸倉で会津兵と戦った。なお彰義隊の副隊長天野八郎は甘楽郡の出身である。

 大政奉還後,上野国内には旧幕府領を合わせて岩鼻県が置かれ,前橋以下9藩は藩制をつづけた。岩鼻県は武蔵北部の幕府領も合わせて群馬郡岩鼻(高崎市)の旧代官所を県庁とした。1871年7月,廃藩置県で藩はそれぞれ県と称し,10月,邑楽・山田・新田3郡を栃木県管下とし,上野国内の諸県を合わせて群馬県(第1次)が成立した。県名は首邑のある群馬郡の郡名に由来する。県庁は高崎,のち前橋城内に移った。ついで73年6月,川越を首邑とする入間県と合併して熊谷県(県庁熊谷)となり,さらに76年8月,入間県と分離,先に栃木県に属した東毛3郡を復して,ほぼ旧上野国一国を県域とする現在の群馬県となった。県庁は高崎に置かれたが,81年前橋に確定した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上野国」の意味・わかりやすい解説

上野国
こうずけのくに

群馬県域の古代国名。俗称は上州(じょうしゅう)、上毛(じょうもう)。北関東一帯は古く「け」または「けぬ」とよばれていたが、5世紀ごろ「かみつけぬ」(上毛野)、「しもつけぬ」(下毛野)に分かれたという。大化改新の国司制のあと、国名は2字に統一されて「上野」と書き、音便で「こうづ(ず)け」となった。国内には旧石器文化発見の端緒となった岩宿(いわじゅく)遺跡のほか、縄文、弥生(やよい)文化にも特色がみられるが、古墳は約1万基の存在が推定され、その規模、副葬品などから古代東国文化の中枢であったことが知られる。上毛野(かみつけぬ)氏の一族が栄え、律令(りつりょう)制下には碓氷(うすい)、吾妻(あがつま)、利根(とね)、勢多(せた)、群馬(くるま)、片岡、多胡(たご)、緑野(みどの)、甘楽(かんら)、山田、那波(なは)、佐位(さい)、新田(にゅうた)、邑楽(おはらき)の14郡を管する上国(のち親王任国、大国)で、東山道に属し、官牧9を数え、蝦夷(えぞ)政策の前進拠点であった。国府は前橋市元総社町付近と推定され、近くに国分寺跡、総社神社がある。式内一宮(いちのみや)は貫前(ぬきさき)神社、建郡記念の多胡碑(たごひ)など上野三碑が有名。10世紀前後からは律令(りつりょう)制の緩みに乗じて各地に武装集団が興り、下総(しもうさ)の平将門(まさかど)は上野国府に入って新皇と称した。これを鎮定した藤原秀郷(ひでさと)や奥州平定に功をあげた源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)父子以来、上野国は関東武士の拠点となり、とくに義家の孫義重(よししげ)は新田荘(にったのしょう)を開いて新田氏を称し、その一族はもっとも有力であった。本統から出た義貞(よしさだ)は建武新政に活躍したが、その後一族は分裂し、岩松(いわまつ)氏だけが金山(かなやま)城(太田市)によって伝領した。室町時代の上野は関東管領(かんれい)上杉(うえすぎ)氏の守護国で、白井(しろい)城(渋川市)の長尾(ながお)氏が守護代であったが、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)に次いで、15世紀以降は永享(えいきょう)の乱、上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱など足利一族の抗争や上杉氏、長尾氏の対立、離反が相次ぎ、関東動乱の渦中に入った。こうして16世紀なかば上杉憲政(のりまさ)が越後(えちご)(新潟県)に追われたあと、上野国は北条、武田、上杉3氏の攻防の焦点となったが、一時織田の部将滝川一益(たきがわかずます)の厩橋(うまやばし)(前橋)入城を経て、北条氏にほぼ制圧された。しかし北条氏も沼田真田(さなだ)氏との領域協定を破ったため、1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉に攻められて滅び、ようやく関東の動乱が終わった。

 近世に入ると上野国は江戸城北辺の守りとして、井伊(いい)(高崎)、榊原(さかきばら)(館林)、酒井(前橋)など譜代(ふだい)の重臣が配備された。徳川家康が新田一族(徳川氏)の後裔(こうえい)と称したことから、太田に大光院(義重の菩提(ぼだい)寺)を開き、世良田(せらた)(新田郡尾島町)の長楽寺(開山栄西(えいさい))を復興した。藩はその後変転して幕末には前橋(17万石)、高崎(8万2000石)など9藩となったが、大半は譜代小藩で、それに天領、旗本領が交錯していた。元禄(げんろく)期(1688~1704)の総石高は約60万石。生業は畑作が主で、とくに養蚕業は古い伝統をもち、桐生(きりゅう)のほか伊勢崎(いせさき)、藤岡の絹織物が有名であった。安政(あんせい)の開港(1854)後は輸出生糸が空前の活況を呈した。そのほか煙草(たばこ)、麻、硫黄(いおう)、砥石(といし)などが特産であった。江戸を控えて国内には中山道(なかせんどう)、三国(みくに)街道などのほか脇(わき)往還も多く、利根(とね)川も廻米(かいまい)、商荷の輸送動脈であった。大被害を受けた天明(てんめい)の浅間焼け(1783)前後から農村の疲弊が進み、絹運上反対騒動や世直し一揆(いっき)が各地に起こった。幕末には各藩とも借財を抱え、幕府への去就に苦しんだが、1867年(慶応3)東山道総督の東下に服し、戊辰(ぼしん)の年には小栗忠順(おぐりただまさ)の処刑、三国、戸倉での対会津戦などの悲劇があった。大政奉還後、9藩のほか、旧幕府領をあわせて岩鼻県が置かれたが、1871年(明治4)廃藩置県で第一次群馬県(東毛三郡を除く)が誕生、ついで1873年熊谷(くまがや)県となり、さらに1876年旧上野国を県域として現群馬県が成立した。県庁は当初高崎、のち前橋となった。

[山田武麿]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上野国」の意味・わかりやすい解説

上野国
こうずけのくに

現在の群馬県東山道の一国。もと下野国とともに毛野国と称したが,のち上下に分かれ,上毛野 (かみつけぬ。上毛とも略する) となり,さらに「こうずけ」となった。古墳群の多いことから,大きな政治勢力のあったことが知られ,また上野三碑などから,高度な文化をもっていたことがわかる。朝廷も東国経営の要地として重視し,平安時代には親王任国であった。国府は前橋市元総社町,国分寺は高崎市東国分である。『延喜式』には碓氷郡,片岡郡,甘楽郡,多胡郡,緑野郡,那波郡,群馬郡,吾妻郡,利根郡,勢多郡,佐位郡,新田郡,山田郡,邑楽郡の 14郡とあり,『和名抄』には郷 102,田3万 937町とある。平安時代後期,源義家の子孫が新田荘にあって勢力を伸ばし,新田氏を称して鎌倉時代にも栄え,南北朝時代には新田義貞が出て活躍した。室町時代には上杉氏が守護となり,戦国時代には長尾氏,後北条氏 (→北条氏 ) ,武田氏がその支配をめぐって争った。江戸時代には館林に秋元氏6万石,伊勢崎に酒井氏 2万石,高崎に松平氏7万 2000石,安中に板倉氏3万石,小幡に松平氏 2万石,沼田に土岐氏 3万 5000石,吉井に松平 (吉井) 氏1万石 (→吉井藩 ) などがあり,大藩はなかった。徳川氏は新田氏の子孫を称したため天領も多く,幕府の厚い保護を受けた寺院もあった。明治4 (1871) 年の廃藩置県により7月に藩は県となったが,10月には群馬県に統一された。

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藩名・旧国名がわかる事典 「上野国」の解説

こうずけのくに【上野国】

現在の群馬県のほぼ全域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東山道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府は現在の前橋市元総社(もとそうじゃ)町、国分寺は高崎市と前橋市の境におかれていた。当地の岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で、日本初の旧石器時代遺跡が発見された。1108年(天仁(てんにん)1)の浅間山(あさまやま)の噴火による火山灰で田畑が荒廃したが、再開発され新田荘(にったのしょう)など多くの荘園(しょうえん)が成立した。鎌倉時代末期には新田義貞(よしさだ)の地盤となった。南北朝時代以後は上杉氏守護となったが、戦国時代には上杉氏、武田(たけだ)氏、後北条(ごほうじょう)氏らの争いの地となった。江戸時代は幕府直轄領、譜代領、旗本領などが入り交じり、末期には9藩が分立していた。1871年(明治4)の廃藩置県により群馬県と栃木県となり、1873年(明治6)に群馬県は入間(いるま)県と合併し熊谷(くまがや)県となった。ついで、1876年(明治9)に栃木県より旧上野地域を編入、入間県の旧地を埼玉県に移管、県名を群馬県に戻した。◇上州(じょうしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「上野国」の意味・わかりやすい解説

上野国【こうずけのくに】

旧国名。上州とも。東山道の一国。今の群馬県。もと毛野(けぬ)国,のち上毛野(かみつけぬ)・下毛野(しもつけぬ)両国に分かつ。壮大な古墳多く,《延喜式》に大国,14郡。中世の大豪族に新田氏。守護は鎌倉時代に安達・北条,室町時代に上杉氏。戦国時代には長尾(上杉)・武田・小田原北条氏らが進出。近世,譜代の諸藩に分封。→前橋藩高崎藩上野三碑
→関連項目板鼻岩鼻関東地方群馬[県]新田荘沼田藩

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「上野国」の解説

上野国
こうずけのくに

東山道の国。現在の群馬県。「先代旧事(くじ)本紀」国造本紀によれば,仁徳朝に毛野(けの)国から上毛野(かみつけぬ)国が分立,8世紀初めから上野国と表記(多胡(たご)碑など)。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では碓氷(うすい)・片岡・甘楽(かんら)・多胡・緑野(みどの)・群馬(くるま)・勢多・利根・吾妻(あがつま)・那波(なは)・佐位・新田・山田・邑楽(おあらき)の14郡からなる。国府は群馬郡(推定地は現,前橋市)。国分寺と国分尼寺は群馬郡(現,高崎市)におかれた。一宮は甘楽郡の貫前(ぬきさき)神社(現,富岡市)。「和名抄」所載田数は3万937町余。「延喜式」では調庸は絁(あしぎぬ)・布などで,中男作物は麻・蓆(むしろ)・漆・紙・紅花。東日本最大の太田天神山古墳(現,太田市)など多くの古墳が県南部を中心に広く分布。826年(天長3)以降は親王任国。939年(天慶2)平将門(まさかど)が国府を占拠。12世紀には新田荘が設置され,新田氏の拠点となる。室町中期は上杉氏が守護となり,守護代の長尾氏が勢力をはった。戦国期には上杉氏・武田氏・後北条氏が覇を競った。江戸時代には多くの譜代藩がおかれ,幕領・旗本領もあった。1869年(明治2)幕領・旗本領は岩鼻県とされ,71年の廃藩置県の後,群馬県となる。

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世界大百科事典(旧版)内の上野国の言及

【両毛地方】より

…関東地方北西部の地域名。広義には古代に毛野(けぬ)と呼ばれた範囲を指し,現在の群馬県全域と栃木県南部にあたる。この地域はのちに上毛野国(奈良時代以降の上野(こうずけ)国),下毛野国(下野(しもつけ)国)に分かれたことから,両毛地方の名が使われるようになった。狭義には群馬県南東部から栃木県南西部にかけての東西に長い地域を漠然と指し,JR両毛線とこれに連絡する東武鉄道各線の沿線一帯にあたり,現在ではこの使い方が一般的である。…

※「上野国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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