土佐国(読み)トサノクニ

デジタル大辞泉 「土佐国」の意味・読み・例文・類語

とさ‐の‐くに【土佐国】

土佐

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日本歴史地名大系 「土佐国」の解説

土佐国
とさのくに

土佐の名称は「古事記」の伊邪那岐・伊邪那美二神の国生みの段に「次に伊予之二名ふたな島を生みき。此の島は、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、伊予国は愛比売えひめと謂ひ、讃岐国は飯依比古いひよりひこと謂ひ、あは国は大宜都比売おほげつひめと謂ひ、土左国は建依別たけよりわけと謂ふ」とみえる。「面四つ有り」といわれた四国の一区域で、それぞれの区域に神霊が宿るとする古代人の意識から、伊予・阿波には女神、讃岐・土佐には男神と考え、土佐の男神は建依別である。建依別は剛健勇武を意味し、土佐の男性的な気性を表しているが、江戸時代の中山厳水は、室戸岬の豪壮雄大な景観や安芸郡の地形から建依別の名の起源を推定している(編年紀事略)。「日本書紀」には天武天皇四年三月二日条に「土左大神、神刀一口を以て天皇に進る」、翌五年九月一二日条には「筑紫大宰三位屋垣王、罪有りて土左に流す」とみえる。このように「古事記」「日本書紀」は「土左」と記し、「旧事本紀」には「都佐」とあり、「続日本紀」「延喜式」および「和名抄」などでは「土左」と「土佐」を混用、「日本後紀」「類聚三代格」をはじめ平安初期の史料ではおもに「土左」の文字をあてる。「土左」を「土佐」に改めたのは、和銅六年(七一三)の好字令(「続日本紀」同年五月二日条)に従ったものと伝えるが、除目ではそれ以降も「土左」を用いており(長徳二年大間書「大日本史料」二編ノ二)、佐と書かれるようになった確かな時期は明らかでない。奈良時代から佐の字が用いられ始め、平安中期頃になって佐が一般的になったのであろう。しかしなお混用は続いている。

国号の起源や意味には古来諸説がある。江戸時代中期の安養寺禾麻呂は「土佐幽考」で「土佐者俊聡也、当国人心俊速聡明之称也、或云土者遠也、佐者狭也、国形東西遠南北狭故遠狭之意也」と記す。「南路志」は浦戸うらど湾の入口が狭小であるので門狭とさといったのであろうといい、その他、郡郷名による起源説、渡狭・速稲の意に基づくとする説など多くの説がある。

古代

〔国の成立〕

大化改新以後国郡制が定められるが、それ以前には国造が補任されていた。「国造本紀」には崇神天皇の代に天韓襲命が波多はた国造に、成務天皇の代に小立足尼が都佐とさ国造に任命されたことが記される。波多国は幡多はた郡に、都佐国は安芸・土佐・吾川あがわの三郡(のち香美・長岡・高岡三郡が分置される)に相当するといわれる。ただ都佐国は「日本地理志料」に「蓋鎮土佐・長岡・香美・安芸四郡地也」とあり、また広範にすぎるため「国造本紀」に記載はないものの安芸国造と吾川国造が置かれていたのではないかとの説もある。

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改訂新版 世界大百科事典 「土佐国」の意味・わかりやすい解説

土佐国 (とさのくに)

旧国名。土州。現在の高知県。土左国,都佐国とも記す。

南海道に属する中国(《延喜式》)。ただし865年(貞観7)に介を加置され国司の構成は上国と変わらなくなった。《古事記》の国生み神話には〈建依別(たけよりわけ)〉という別称が記されている。《先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)》の国造本紀には波多国造として天韓襲命,土佐国造として小立足尼の名がみえ,律令制的な国の成立以前,この地は土佐・波多両国造の支配下にあった。令制下には安芸,土佐,吾川(あかわ),幡多(はた)の4郡が置かれたが,宝亀(770-780)以後,香美(かかみ)(805以前),高岡(841),長岡(延喜式以前)の3郡が新設され,7郡となった。《和名抄》によれば,それらの下に43の郷が置かれたことがわかる。国府は長岡郡に置かれ,現在の南国市比江がその地とされる。付近に国分寺(南国市国分)もある。

 都より土佐に至る官道は,古くは伊予国を経由していたらしいが,718年(養老2)に阿波から直接土佐に入る道が開かれ,さらに796年(延暦15)にも別の新道が開かれている。これは四国山脈を横断して南下するもので,現在の長岡郡本山町を経由し,のちに〈北山越え〉と呼ばれる官道であった。土佐国は724年(神亀1)の制によって遠流の国とされて以来,奈良時代では石上乙麻呂大伴古慈斐,池田親王(淳仁天皇の弟),弓削浄人・広方・広田(道鏡の一族),平安時代に入ると紀夏井(応天門の変),藤原師長(保元の乱),源希義(まれよし)(平治の乱)等々,多くの著名人の配流先となった。また,国司としては紀貫之の来任が著名である。《延喜式》によれば,正税・公廨各20万束,雑稲12万8000余束を輸し,調庸物その他の貢進物としては繊維製品や米などの一般的な品目のほかに煮塩年魚(あゆ)や堅魚(かつお),鯖(さば),亀甲などの水産物を多く輸した。また,紙も貢納した。平安後期には藤原氏や平氏の知行国となる場合も多かった。
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土佐における源平の争乱は1182年(寿永1)9月,長岡郡介良(けら)荘にいた流人土佐冠者希義(源頼朝の弟)が平家家人に討たれたことに始まる。その後,希義に通じて一時土佐を逃れていた夜須(やす)行宗(行家)の先導する伊豆有綱軍の土佐入国があって,土佐の武士で源氏に荷担するものもようやく多く,壇ノ浦の戦には夜須行宗のほか安芸時家・実家兄弟などの軍功が伝えられている。平家滅亡後の85年(文治1)梶原朝景が軍勢を率いて土佐に入部,戦後処理に当たっており,これは土佐の守護の先蹤といえる。以後,正式の土佐守護には佐々木経高,豊島朝経,三浦義村など有力御家人が補任されているが,その後70年余りの守護は不明。1323年(元亨3)以降,守護代として北条氏得宗(とくそう)被官安東氏の在任が確かめられるから,守護は得宗家である。守護所の所在地は不明だがおそらくは国衙に近い香長(かちよう)平野の東部であろう(室町期の守護代細川氏の居館は香美郡田村にあった)。鎌倉期の土佐の地頭・御家人としては,古くからの在地領主で幕府に本領安堵された夜須,八木,安芸などの諸氏と,治承あるいは承久の乱以後入部したと思われる長宗我部(ちようそがべ)氏香宗我部(こうそがべ)氏,大黒氏などがあり,津野氏も後者の公算が大である。しかしこれら在地領主のうち,鎌倉御家人として《吾妻鏡》にみえるのは先の夜須行宗,源内行景の2名のみであり,しかもともに土佐冠者希義にかかわり,政治史からみる土佐の鎌倉期は少しく精彩を欠いている。鎌倉期より史料に荘名のみえるおもな荘園は安芸荘(金剛頂寺領),安田荘(同),浮津荘(同),室津荘(最御崎(ほつみさき)寺領),大忍荘(おおさとのしよう)(熊野社領),吉原荘(小槻家領,高倉院法華堂領),片山荘(九条家領),潮江荘(最御崎寺領),吾川山荘(吸江庵領),幡多荘(はたのしよう)(一条家領)などがある。鎌倉幕府滅亡の元弘の変では,香宗我部氏,須留田氏の足利軍へ,河間光綱の新田軍の鎌倉攻めへの参陣があるが,後者は偽書による荒説である。

建武新政府では土佐国司藤原兼光で,遥任である。守護は不明。1335年(建武2)12月に始まる南北朝内乱の過程では,翌年正月,土佐浦戸城で北党の津野,三宮,曾我の諸氏が南党と戦っており,以後,香美(かみ)郡深淵城,土佐郡一宮,また大高坂(おおだかさ)城,安楽寺城,さらに高岡郡丸山・神崎城と攻防戦が繰りひろげられる。しかし,この年の10月に京都では南北朝一時の和議が整ったことによるのか,土佐もおおむね静謐で,その後3年,1339年(延元4・暦応2)の暮れから翌年正月にかけて,再び大高坂城攻防戦が行われ,激戦ののち,城は陥落する。南軍は後醍醐天皇の皇子花園宮(満良親王)を戴く新田,金沢,近藤,河間,佐川,度賀野,有井の諸氏と大高坂松王丸,北軍は土佐守護細川皇海(細川定禅とする通説は誤り)を将とする津野,堅田,三宮,佐竹などの諸氏である。以後,南軍の勢力は急速に衰え,41年(興国2・暦応4)11月,最御崎寺の利生塔(りしようとう)建立は足利氏の土佐制圧の宣言といえる。なお,その後足利氏の内訌,観応の擾乱(かんのうのじようらん)のときの土佐の守護は尊氏・高師直(こうのもろなお)派の高定信であり,直義(ただよし)党の細川顕氏は定信方の高岡荘松風城を没落させており,52年(正平7・文和1)9月には,顕氏の跡を継いだ繁氏が讃岐とともに土佐の守護として所見する。繁氏の死後の守護は細川頼之,ついで頼元,満元,頼長,持之と続くが,頼長は応永の乱後の一時的処置であり,頼之以降,土佐は讃岐,摂津,丹波とともに管領細川京兆家(けいちようけ)の分国となって戦国期に及ぶ。なお,守護代は〈細川角田系図〉によって,78年(天授4・永和4)細川庶流遠江守頼益が入国,田村荘に居館を置き,以後,満益,持益,勝益,政益と続くとするのが通説であるが,この説には疑点が多い。このように細川京兆家分国となった土佐ではあったが,南北朝末期から応仁の乱にかけてのおよそ100余年間に永徳年間(1381-84),1402年(応永9),30年(永享2),51年(宝徳3),56年(康正2)と5度の内乱がみられる。それらは土佐西部の津野之高,佐川某など複数の国人領主連合の反乱であり,しかも伊予の動向と関連している。四国のうち,伊予だけは細川氏の分国化しえなかったが,その伊予への細川氏の介入が河野氏の内訌を生み,河野氏と血縁のあった土佐の津野氏などの反抗を連鎖させたのである。

応仁の乱では,土佐は細川氏の分国であった関係で大平,香宗我部,長宗我部の諸氏は上洛して東軍勝元軍に属する。だが乱以前から伊予の河野通春(河野教通と対立)と結んで,土佐での反細川勢力となった津野之高らは動かず,通春は西軍大内政弘に属して上洛している。また乱中,一条家は京都から土佐幡多荘に下向して小戦国大名化していくが,これと並んで諸有力国人衆もそれぞれに自立,抗争を続けていく。その契機となるのが1507年(永正4)管領細川政元の京都での横死であり,これによる土佐細川勢の上洛,翌年その間隙をねらった大平,本山,吉良,山田の連合軍による岡豊(おこう)攻撃,長宗我部兼序の敗死となる。しかし兼序の子国親は一条氏に庇護されて大いに勢力を回復,本山,吉良,大平,津野,安芸,香宗我部(あるいは山田)と並んで,独自の領域的支配圏を形成し,激しい抗争を展開する。いわゆる土佐の〈七守護〉〈七大名〉である。このうち国親の後を継いだ長宗我部元親は次々と七守護を倒し,74年(天正2)には土佐一条氏をも下して土佐一国を統一,さらに85年(天正13)四国全土を併呑する。ただこのとき,豊臣秀吉の討伐を受けて降伏,土佐一国を安堵されて豊臣政権の一大名となり,土佐は中央政権の一地域に組みこまれる。長宗我部氏はその後秀吉の統一戦争,朝鮮出兵の軍役を強いられながらも,中央政権への従属をてこに国内統制を強化していく。その顕著な政策が,87年からの一国総検地であり,97年(慶長2)発布の掟書百箇条である。1600年,関ヶ原の戦では,長宗我部盛親の属した西軍が敗北,土佐長宗我部氏の時代は終わる。

宗教では弘法大師信仰にかかわる平安末期からの四国巡礼があり,室町期にはいわゆる〈四国八十八ヵ所〉の原形が成立する。熊野信仰も比較的早く,御師(おし)による武士階級の旦那化は鎌倉期からみられ,各所に熊野社が勧請されている。南北朝期,土佐南軍の一翼に高岡郡横倉社の熊野衆徒があった。熊野についで全国に教線を延ばした伊勢御師の布教活動は応仁の乱後に顕著となり,戦国・織豊期の土佐にはその痕跡がとくに濃厚である。禅宗では夢窓疎石の開いた吸江寺(ぎゆうこうじ)が室町幕府官寺制度における土佐唯一の諸山の寺格にあり,土佐禅林文化の中心であった。他の国人領主層の外護した禅寺には大平寺(一条氏),細勝寺(細川氏),長林寺(津野氏),妙蓮寺(大平氏),雪蹊寺(長宗我部氏),浄貞寺(安芸氏),予岳寺(山田氏)などがある。文芸では五山文学の双璧とされる義堂周信,絶海中津,これを継いだ旭岑瑞杲(別号待雨)などがある。ただ南学の祖として喧伝される南村梅軒は,大高坂芝山の捏造(ねつぞう)した架空の人物である。美術工芸品としては金剛頂寺,妙山寺,金林寺,禅師峯寺,竹林寺,雪蹊寺,宗安寺,大平寺などに鎌倉・室町期の仏像,仏具,仏画などが残されており,建築では長宗我部元親修造の国分寺金堂,土佐神社社殿がある。書冊では,大平氏印行・所蔵本筆写の〈父母恩重経〉(京都国立博物館)・《拾遺和歌集》(京都府立総合資料館)・《八雲御抄》(住吉大社),大平国光自筆短籍(金比羅宮),津野氏の《和玉篇》(大東急記念文庫)などがあって,室町・戦国期の国人文化を知る貴重な文化財となっている。
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関ヶ原の戦後,土佐24万石(朱印高は20万石)の国主となったのは,遠江国掛川の城主山内(やまうち)一豊である。一豊は1601年(慶長6)浦戸城に入ったが,それに先立ち,一領具足(兵農未分離の長宗我部氏下級家臣)たちが明渡しを拒否して抗戦し273名が討死する,いわゆる浦戸一揆が起こった。一揆後,長宗我部家臣団の上層部は出国,一領具足層は帰農して兵農分離が実現した。

 山内氏は大高坂山に河中城(のち改め高知城)を築き,03年浦戸城から移った。城の周辺,鏡川と江ノ口川の間を郭中として掛川以来の家臣団で固め,郭中の東西,濠の外側を町人町とした。町人町には戦国土佐の各地に存在した市場町の商人が移されたので,出身地を町名とした例が多い。城下町のほか,安芸郡土居,長岡郡本山,高岡郡佐川,同郡窪川,幡多郡中村,同郡宿毛(すくも)には上級家臣の土居が置かれた。また中期以降,香美郡野市,同郡山田,長岡郡後免(現,南国市)などには新田開発に伴い在郷町が形成され,安芸郡田野,香美郡赤岡,幡多郡下田(現,四万十市)などには浦町がおこった。

 城下からは,東西に公道が整備され,四国遍路の道が霊場を結んでいた。物資の輸送には沿岸航路や舟入川,新川川などの運河が多く利用された。藩外へは,上方へ行く小廻り廻船と江戸へ行く大廻り廻船があった。参勤交代のコースは,初期には野根山を越えて,甲浦(かんのうら)(現,安芸郡東洋町)より海上大坂に至り,1718年(享保3)以後は北山通りで四国山脈を横断し,瀬戸内海を渡るようになった。

新田開発がとくに進捗したのは野中兼山の執政期(1631-63)で,物部川など主要河川に井堰(いぜき)を設け水路を開いて,総計3872町歩に灌漑し,7万5000石の新田を得た。その後も開発は進められ,1870年(明治3)の郷村高帳では,本田24万8000石に対し,新田24万6000石となっている。貢租率は本田六公四民,新田四公六民であった。兼山は津呂港(現,室戸市),手結(てい)港(現,香南市)などを開き,殖産興業にも尽力したが,反面過重な課役や民利の収奪を伴ったため,士民の反感が噴出して失脚した。対外的に重要な産物の筆頭は木材で,白髪(しらが)山(現,長岡郡本山町)のヒノキと魚梁瀬(やなせ)山(現,安芸郡馬路村)の杉は良材として天下に知られ,しばしば城郭建築の料木として幕府に献上され,財政難を救うため上方へ積み出された。乱伐を恐れて輪伐法を定め,留山(とめやま)・留木の制をしくなど保護にもつとめた。民間では17世紀後期安芸郡を中心に上方への薪積出しが活発化し,浦々に廻船ブームがまき起こったが,18世紀に入ると上方問屋の買いたたきや資源枯渇のためしだいに沈滞に向かった。

 近世初頭,吾川郡成山(なるやま)(現,吾川郡いの町)で創出された七色紙が山内一豊に献上されたのを契機に,同地域は御用紙漉(かみすき)に指定され,厳重な保護統制を受け,土佐紙の声価が高まった。やがて各地に発生した紙漉に対しても,藩は御蔵紙と称する専売制度を適用して民利を奪ったので,1755年(宝暦5)には津野山一揆,87年(天明7)には池川紙一揆が起こった。盛時の紙漉1万5000余戸,年産700万束にのぼったといわれる。陶器の尾土(おど)焼は17世紀中葉大坂高津の陶工久野正伯を招いて創始した藩窯で,製品は茶器,置物など美術品が主であった。文政年間(1818-30)高知城北麓の尾土(小津)から西南郊外の能茶(のうさ)山に移り,能茶焼として今日に伝わる。米の二期作普及に貢献したという石灰の製造は,享保年間(1716-36)城下の商人美濃屋と大和屋が下田村稲生(いなぶ)(現,南国市)で始め,文政年間,桜屋が乗り出して以来大いに発展した。桜屋は阿波伝来の本式かまどを採用して上方市場で評価を高め,近村の農家に肥料としての効能を説いて市場拡大につとめた。幕末には藩内で約130万俵生産されたと推定される。

 漁業では古来カツオ漁が有名だが,近世以降,高岡郡宇佐(現,土佐市),幡多郡清水・中浜(なかのはま)(現,土佐清水市)などで盛んとなり,天保年間(1830-44)には年漁獲高200万本の記録を残す。加工面では宇佐の播磨屋佐之助,中浜の山崎儀右衛門らが鰹節の改良と積出しにつとめ,江戸,上方で土佐節の名声を高めた。捕鯨業は近世初頭,安芸郡津呂(現,室戸市)の多田五郎右衛門が始めた。尾張から尾池四郎右衛門が来国して従事したこともあったが長続きせず,寛文年間(1661-73)多田吉左衛門が従来の突取法に代わる網取法を紀州より導入,津呂,椎名(現,室戸市)と幡多郡窪津(現,土佐清水市)を漁場に発展した。しかし回遊頭数にむらがあって安定せず,元村(現,室戸市)大庄屋奥宮氏の手を経て幕末には藩営となった。

土佐の朱子学は南学と呼ばれ,野中兼山,小倉三省,山崎闇斎らのグループが振興の先鞭をつけたが,兼山の失脚とともに当局に忌避されて〈南学四散〉を招いた。その後,京都に出た闇斎に谷秦山(谷重遠)が学んで復活し,史学,国学,暦学をあわせて〈谷家の学〉として伝えた。その土壌の上に武藤致和(むねかず)の《南路志》,鹿持(かもち)雅澄の《万葉集古義》などが生まれ,維新に連なる尊王思想が形成された。藩校として宝暦年間(1751-64)に教授館(こうじゆかん)が,幕末にはそれに代えて文武館(のち致道館)が設けられた。尊王攘夷運動を推進した土佐勤王党は,15代藩主山内容堂(豊信)が安政の大獄に連座したことを契機に結成され,盟主武市(たけち)瑞山(半平太)以下約200名の党員はほとんど郷士,庄屋などの下士,豪農だった。公武合体派の参政吉田東洋を暗殺して一時藩政に影響を及ぼしたが,大獄後帰藩した容堂に弾圧され,壊滅状態となった。坂本竜馬,中岡慎太郎らは脱藩して活躍した。藩としては大政奉還の建白を経て,戊辰戦争とともに討幕にふみきり,板垣退助らの活躍で薩・長につぐ勤王藩となった。1869年(明治2)土佐藩は薩・長・肥と連合して版籍奉還を願い出,70年藩内に〈人民平均之理〉を示して新時代への対応を呼びかけた。71年7月廃藩置県で高知県となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「土佐国」の意味・わかりやすい解説

土佐国
とさのくに

四国南部の太平洋に面した旧国名。南海道に属す。現在の高知県。建依別(たけよりわけ)の別名があり(古事記)、古くは都佐、土左と書かれた。縄文遺跡は西部に多く、弥生(やよい)遺跡は東部に多い。古墳は中東部の長岡郡南部に集中する。天韓襲命(あめのからそのみこと)が波多(はた)の国造(くにのみやつこ)、小立足尼(ひじのすくね)が都佐の国造であったと『先代旧事本紀(くじほんぎ)』には記す。天武(てんむ)天皇13年(684)10月14日の大地震で50余万頃(しろ)(12平方キロメートル)が海没したという(日本書紀)。行政区画が定まり、幡多(はた)、吾川(あがわ)、土佐、安芸(あき)の4郡が設置、平安初期ごろまでに高岡、長岡、香美(かがみ)の3郡が新設されて7郡となる。『和名抄(わみょうしょう)』には7郡の下に43郷が記されている。国府は長岡郡に置かれ、紀貫之(きのつらゆき)の来任は有名。724年(神亀1)遠流(おんる)の国と定まったが、紀夏井(なつい)、藤原師長(もろなが)、源希義(まれよし)、土御門(つちみかど)上皇、尊良(たかなが)親王らは土佐へ配流された著名人である。土佐への官道は718年(養老2)、讃岐(さぬき)(香川県)、伊予(いよ)(愛媛県)から入るのを阿波(あわ)(徳島)から入るように改める。『延喜式(えんぎしき)』には上り35日下り18日、海路25日とみえ、田租は「正税公廨(くがい)各廿万束」とあり、調として帛(はく)、堅魚(かつお)、絹などが上納されている。「延喜式内社」は21社で、約半分は高知・香長(かちょう)平野に集中、古代寺院では、竹林(ちくりん)寺(高知市)、豊楽(ぶらく)寺などは行基(ぎょうき)が開いたといわれ、空海(くうかい)開基の伝承をもつ寺も多い。

 平安・鎌倉時代の荘園(しょうえん)の発達により7郡43郷の制は改変され、安芸郡の室津(むろつ)・奈半利(なはり)・田野・安田・和食(わじき)・安芸、香美郡の夜須(やす)・大忍(おおさと)・物部(ものべ)・吉原(よしはら)・田村、長岡郡の片山・介良(けら)・吾橋(あがはし)、土佐郡の一宮(いっく)・鴨部(かもべ)・神田(こうだ)・朝倉、吾川郡の吾川山、高岡郡の高岡・蓮池(はすいけ)・津野、幡多郡の幡多などのおもな荘園が成立した。守護地頭の設置で梶原朝景(かじわらともかげ)、佐々木経高(つねたか)、豊島朝経(ともつね)、三浦義村(よしむら)らが守護となったが、鎌倉末期には北条氏の手中に帰した。地頭では香美郡宗我(そが)・深淵(ふかぶち)郷の香宗我部(こうそがべ)、長岡郡の長宗我部(ちょうそがべ)、高岡郡の津野らが有名。南北朝の内乱以来、細川氏の守護領国となり、細川一族の頼益(よります)、満益、持益、勝益が守護代として田村荘にあって国内を支配した。応仁(おうにん)の乱(1467~77)後、群雄が割拠し、安芸、香宗我部、山田、本山(もとやま)、長宗我部、吉良(きら)、大平(おおひら)、津野らの諸氏が争ったが、1575年(天正3)長宗我部元親(もとちか)が国内を統一した。1468年(応仁2)一条教房(のりふさ)は自領の幡多荘中村に移り荘園から都市化への道を開いた。房家(ふさいえ)、房冬、房基、兼定(かねさだ)と4代を経たが、兼定は長宗我部氏に追放され、子内政(ただまさ)も元親に反し一条氏は滅んだ。元親は土佐統一後四国を制覇したが、1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉に敗れ土佐一国を安堵(あんど)され、国内の経営に専念した。掟書(おきてがき)(長宗我部元親百箇条)や地検帳(国指定重要文化財)はその成果であり、そのほか岡豊(おこう)文化ともいえる遺産を残した(岡豊は長宗我部氏の城地、現南国(なんこく)市)。

 関ヶ原の戦い後山内一豊(やまうちかずとよ)が国主となり高知城を築く。山内氏は1859年(安政6)の豊範(とよのり)襲封まで16代を数えるが、その間1612年(慶長17)には75か条の法令を定め、90年(元禄3)には「元禄大定目(げんろくおおじょうもく)」が定められ藩法による統治方針が規定された。藩政初期には野中兼山(けんざん)が手腕を振るい藩政の基礎が固まった。天文(てんぶん)年間(1532~55)吉良氏の保護下に発祥したといわれる南学(なんがく)は、闇斎(あんさい)学・谷派の学問として発展し、幕末土佐の勤王運動に影響を及ぼした。幕末には武市瑞山(たけちずいざん)、坂本龍馬(りょうま)、中岡慎太郎(しんたろう)、吉村虎太郎(とらたろう)らの志士が活躍し、明治維新への原動力となった。1871年(明治4)高知藩を改め高知県となり今日に至る。

[山本 大]

『山本大著『高知県の歴史』(1969・山川出版社)』『高知地方史研究会編『高知県歴史年表』(高知市民図書館・市民新書)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「土佐国」の解説

とさのくに【土佐国】

現在の高知県全域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で南海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は中国(ちゅうこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の南国(なんこく)市におかれていた。平安時代中期に国司として当地に赴任した紀貫之(きのつらゆき)の『土佐日記』は有名。流刑地(るけいち)でもあり、土御門(つちみかど)天皇尊良親王(たかよししんのう)らが配流された。鎌倉時代末期に北条(ほうじょう)氏が支配するが、南北朝時代以降は細川氏の領国となる。応仁(おうにん)の乱後、長宗我部(ちょうそかべ)氏、本山氏、安芸(あき)氏などが抗争を繰り広げたが、長宗我部元親(もとちか)が四国すべてを領有した。豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敗れたのちは土佐一国のみを支配。江戸時代は山内氏の領有となった。幕末には武市瑞山(たけちずいざん)武市半平太)、坂本竜馬中岡慎太郎らの志士が活躍した。1871年(明治4)の廃藩置県により高知県となった。◇土州(どしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土佐国」の意味・わかりやすい解説

土佐国
とさのくに

現在の高知県。南海道の一国。中国。『古事記』には「土佐国を建依別 (たけよりわけ) と謂ふ」とある。『旧事本紀』には「都佐」「波多」の2国造が記されているが,前者は土佐郡を,後者は幡多郡を中心とした地方を支配したものとみられる。国府,国分寺ともに南国市後免町にあった。『延喜式』には安芸,香美,長岡,土佐,吾川,高岡,幡多の7郡があり,『和名抄』には郷 43,田 6451町が記されている。当国は律の定める遠流 (おんる) の地であった。紀貫之が延長8 (930) 年土佐守となり,承平4 (934) 年まで在任した。鎌倉時代には梶原朝景,佐々木経高,豊島朝経,三浦義村らが守護となったが,末期には北条氏の家督が守護となった。南北朝時代には細川氏が国内を平定し,守護大名として領国を形成した。応仁の乱後は群雄が割拠したが,天正3 (1575) 年長宗我部元親が国内を統一し,さらに阿波,讃岐,伊予と討って四国全土をほぼ平定したが,同 13年豊臣秀吉に敗れ,土佐国一国だけを領有するにいたった。関ヶ原の戦い後,山内一豊が入国し,江戸時代を通じて山内氏が支配し,高知藩として幕末にいたった。高知新田の山内氏はその支藩である。明治維新を経て明治2 (1869) 年高知新田藩を合併し,同4年7月高知県となった。

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百科事典マイペディア 「土佐国」の意味・わかりやすい解説

土佐国【とさのくに】

旧国名。土州とも。南海道の一国。現在の高知県。《延喜式》に中国,7郡。鎌倉時代には佐々木,梶原氏らに次いで北条氏,室町時代には細川氏が守護。同末期に長宗我部氏が支配。近世は山内氏の高知藩。→南学
→関連項目高知[県]四国地方長宗我部氏土佐国蠧簡集幡多荘

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「土佐国」の解説

土佐国
とさのくに

土左国・都佐国とも。南海道の国。現在の高知県。「延喜式」の等級は中国。「和名抄」では安芸・香美(かがみ)・長岡・土佐・吾川(あがわ)・高崗・幡多(はた)の7郡からなる。国府・国分寺は長岡郡(現,南国市)におかれた。一宮は土佐神社(現,高知市)。「和名抄」所載田数は6451町余。「延喜式」では貢進贄(にえ)として押年魚(あゆ)・煮塩年魚,調庸として絹・堅魚・米など,中男作物・交易雑物として亀甲など。724年(神亀元)遠流(おんる)国に定められ,古代・中世を通じて土御門上皇をはじめ多くの貴人が配流された。南海道諸国のうちで京から最も遠く交通も不便なため,いくたびか官道が新設・変更された。鎌倉初期以降,長岡郡を本拠に地頭として成長した長宗我部(ちょうそかべ)氏は,応仁・文明の乱以後国内を統一し,戦国大名となった。関ケ原の戦ののち山内一豊が封じられて高知藩となり,以後幕末まで続く。1871年(明治4)の廃藩置県により高知県となる。

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