朝倉村(読み)あさくらむら

日本歴史地名大系 「朝倉村」の解説

朝倉村
あさくらむら

[現在地名]高知市朝倉・鴨部高かもべたか町・あけぼの町一―二丁目・朝倉本あさくらほん町一―二丁目・若草わかくさ

鴨部かもべ村の西に続く大村。土佐郡に属し、西と南は吾川あがわ郡に接する。村の北東側をかがみ川が流れ、南から東へ流路を変える。中央北寄りを松山街道が、南部を土佐街道(中村街道)が通る。村内じよう山には弥生時代中期の遺跡がある。また鵜来巣山うぐるすやま古墳・朝倉古墳もあり、東部には条里制の遺構も認められる。「和名抄」所載の古代朝倉郷の地に比定される。

中世は法金剛院領朝倉庄の地で、貞応三年(一二二四)頃の宣陽門院所領目録(島田文書)に新御領として「土佐国朝倉庄」がみえる。戦国時代には長岡郡本山もとやま(現本山町)を本拠とする本山氏の進出に伴い、その支配下に入った。大永七年(一五二七)三月三日の池ノ内村天満宮棟札(蠧簡集拾遺)に「土佐郡朝倉庄池内天神社一宇、大檀那八木実茂」とみえる。八木実茂は本山梅慶の父という。梅慶は当地に城を築き、永禄五年(一五六二)には長宗我部元親と梅慶の子茂辰との間に朝倉合戦が起こり、当地は両軍激戦の場となった。


朝倉村
あさくらむら

[現在地名]六日市町朝倉

注連川しめがわ村の北西、吉賀よしが川が北流する左岸にあり、蓼野たでの川が吉賀川に合流する位置にある。安芸廿日市あきはつかいち街道は七日市なぬかいち村から当村の坂折さかおりを通って立戸たちど村に至る。坂折・院身いんみくち野川のかわ奥仲おくなか広尾ひろお仲仙道なかせんどう吉原きちばらの八集落がある。正保国絵図に朝倉とあり高三三五石余。明治四年(一八七一)の万手鑑は蓼野三ヵ村として当村・蓼野村河山かわやま村をあげる。当村の古高三三五石余、寛永一四年(一六三七)の検地高六九一石余、明治四年の総高七八五石余・反別一一二町三反余、家数一一〇(本百姓八九・小百姓一六・社家一・寺二)、牛八〇・馬五、米蔵一、岩淵山那智いわぶちさんなち社と小社二、禅宗龍穏山雲松うんしよう寺・岩淵山本覚ほんがく寺、紙漉舟五二、鉄砲五。


朝倉村
あさくらむら

[現在地名]知多市新知しんち

伊勢湾側の砂堆地帯を南北に走る西浦にしうら街道に沿って発達。東および東南に丘陵地が連なる。北は寺本てらもと村、南は古見こみ村に接する。平城宮出土木簡に「尾張国智多郡贄代郷朝倉里 戸主和尓部色(夫カ)智 調塩三斗 天平元年」とあって、朝倉の地は奈良期にみえ、製塩の地であった。

「寛文覚書」によれば、概高四六〇石余、田一八町三反二畝余・畑一三町二反余、家数六〇、人数三四九。葉山家文書によれば、嘉永七年(一八五四)には家数一五七、人数七四〇。海部あま郡の稲吉いなよし新田村(現弥富町)に移住した家が一一軒ある(知多市誌)。「雑志」に「此邑ノ漁人鮫ヲ釣リテ渡世トス、凡二間三間ノ鮫此釣針ヲ以捕フ。


朝倉村
あさくらむら

[現在地名]足利市朝倉町

渡良瀬川右岸の平地に位置し、対岸は岩井いわい村。西は八幡やわた村。村名の由来に、古代の屯倉にからむ校倉あぜくらの転訛とする説がある。康永三年(一三四四)一二月日の鑁阿寺雑掌申状案(鑁阿寺雑録)足利庄「朝倉郷」とみえる。鑁阿寺の六月八日の仏事銭五〇〇文と使料五〇文を負担しているが(嘉吉二年六月八日「鑁阿寺仏事銭請取状案」同文書)、文明一五年(一四八三)当時は不知行であった(同年二月日「鑁阿寺仏事銭請取注文案」同文書)。「足利長尾顕長家来」に当村の者として安田金内(永三〇貫文)の名がみえる。


朝倉村
あさくらむら

面積:二九・七九平方キロ

高縄たかなわ半島の東部に位置し、北部は今治いまばり平野の一部で今治市、南は東予とうよ市、西は玉川たまがわ町に接する。全村頓田とんだ川の流域で、洪積台地が広く分布し、集落は同川支流の谷間に点在している。周囲は三〇〇―四〇〇メートルの山地に囲まれるが、東部の瀬戸内海国立公園の笠松かさまつ山、古城跡として有名な世田せた山付近は眺望がとくに優れ、観光開発も進んでいる。主産業は施設園芸・柑橘栽培を主とした農業であるが、下朝倉地区では都市化が進み、今治市への通勤者も多い。


朝倉村
あさくらむら

[現在地名]美都町朝倉

益田川上流、朝倉川との合流点付近に位置。東は仙道せんどう村で、平坦地が益田川の両岸に広がる。近世の領主の変遷は都茂つも村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高一七〇石余、年貢高は田方八七石余・畑方一九石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では有高一六一石余、免七ツ余。紙漉が行われた。朝倉川が益田川へ合流する左岸に接して朝倉八幡宮があった。四ッ山よつやま城主須懸備中守忠高が山城男山おとこやま八幡宮より勧請して城中に祀ったが、元亀元年(一五七〇)毛利勢に攻められて落城後に朝倉の鎮守としたという。


朝倉村
あさくらむら

[現在地名]前橋市朝倉町・広瀬町ひろせちよう

北西は六供ろつく村、北は天川原あまがわら村・天川あまがわ村、東は広瀬川をもって勢多せた天川大島あまがわおおしま村、南は後閑ごかん村・下佐鳥しもさどり村、西は上佐鳥村に接する。大古墳群を有し、古代以来開けた地で、「和名抄」那波なは郡朝倉郷の遺称地と思われる。寛文郷帳に田方八七一石四斗余・畑方三六九石二斗余とある。疲弊した農村を立直すため、藩では補助を出して分家取立を奨励した。天保五年(一八三四)の新建百姓は村内に一一軒あった(前橋市史)。この地方の農村の幕末期における手余地の多さがうかがわれる。明治一〇年(一八七七)頃の田反別四八町九反余・畑反別六七町六反余、家数一一二(うち士族一・社二・寺一)・人数五二二(うち士族五)、牡馬四五。


朝倉村
あさくらむら

[現在地名]大田市朝山町朝倉あさやまちようあさくら

波根東はねひがし村の東にあり、北は日本海に断崖をもって臨む。村名は当地にある朝倉彦命あさくらひこのみこと神社に由来する。正保国絵図に村名がみえ、高一八九石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によると、田方一六一石余・畑方四〇石余、年貢高は米八九石余・銀三三八匁余。小物成として網役八六匁などが課されている。家数は本家七六・門屋二二、人数五〇五。寛政元年(一七八九)の私領御巡見様御案内帳(松尾家文書)では高二〇六石余で、家数一二一・人数四七五、牛六二。文政二年(一八一九)の家数人別牛馬調(野沢家文書)では家数一三三・人数五八七、牛六二。


朝倉村
あさくらむら

[現在地名]朝地町朝地 朝倉・朝地

平井ひらい川と真竹またけ川の合流点付近にあり、東は板井迫いたいざこ村。延応二年(一二四〇)四月六日の志賀村名々并上家分田畠在家等中分注文(志賀文書)にみえる朝倉名の遺称地。慶長豊後国絵図には朝倉村とみえ、高三一三石余。正保郷帳では田高二〇八石余・畑高一〇五石余、一万田いちまんだ郷に属し、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高三二七石余。


朝倉村
あさくらむら

[現在地名]三木町朝倉

田中たなか村の南、讃岐山脈に続く山地に立地。江戸時代には東西二村として高付されている場合が多い。応永一二年(一四〇五)の年紀をもつ東光寺鰐口銘(大日本史料)に朝倉郷がみえるが、当地か否か確定できない。寛永国絵図に田中郷内の地名として朝倉と大畠おおばたけがみえる。大畠は当地の大畑おおばたけ集落であろう。貞享高辻帳では西朝倉村の朱印高一一六石、東朝倉村の朱印高八二石余。用水は溜池および井関に頼り、池泉合符録に朝倉村の池数六二、井関数一二七とある。しかし宮池五四石余、掛札池一八石余、谷奥池一八石余のほかは水掛高一〇石に満たない小池で、井関からの水掛高も合せて九石五斗余にすぎない。


朝倉村
あさくらむら

[現在地名]八鹿町朝倉八鹿

米里めいり村の東、八木やぎ川下流南岸に位置し、山陰道が通る。対岸北西は小山こやま村、北は八鹿村。集落は八木川に注ぐ支谷下流部に発達した扇状地上に形成された。中世の朝倉庄の遺称地。近世の領主の変遷は舞狂ぶきよう村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえ、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高四一九石余。出石封内明細帳によると拝領高三六四石余・改出高五五石余、これらの内訳は屋敷三石余・麻畑二石余・田方二八四石余・畑方一二九石余、ほかに古新発高九石余、家数五〇・人数一九九。


朝倉村
あさくらむら

[現在地名]芝山町朝倉

岩山いわやま村の南にある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一四〇石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では白升組に属し、旗本松平領。寛政五年(一七九三)には家数二〇、多古藩松平(久松)氏の分家松平織部領。以降幕末まで同家領で、慶応四年(一八六八)の村高書上帳(おとづれ文庫蔵)によると高一四七石・家数一六、田方一二町九反余・畑方五町六反余、石盛は上田一五・中田一二・下田七、上畑九・中畑六・下畑三、屋敷一〇。


朝倉村
あさくらむら

[現在地名]出雲市大津町おおつちよう

斐伊川左岸にあり、東は大津村、西は石塚いしづか村。寛永一一年(一六三四)の塩冶八幡指出帳(秦家文書)に「あさ蔵村」とみえる。正保国絵図に村名がみえる。慶安二年(一六四九)の検地帳が残る。元禄十年出雲国郷帳では高二〇八石余、寛文四年(一六六四)の本田高二〇七石余、新田高なし。総面積に対する耕地が高率であり、しかも耕地の九八パーセントを田が占め、上田が二九パーセントと豊穣である(大津町誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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