朝穂堰
あさほせぎ
茅ヶ岳南西麓を灌漑する農業用水路で、北巨摩郡須玉町江草の八巻地内で塩川左岸から取水し(取入口を大口という)、同郡明野村を経て韮崎市穂坂町三ッ沢に至る。延長三八・六キロ。江戸時代に開削された浅尾堰と穂坂堰を明治五年(一八七二)に統合して成立した。堰名は両堰の頭字をとって名付けたが、浅尾の浅は明治維新朝廷政治を記念して朝に変えている。
浅尾堰は上神取村(現明野村)の清右衛門、村山東割村(現高根町)の重右衛門が茅ヶ岳山麓浅尾原(現明野村)の開拓を計画、代官平岡次郎右衛門和由に堰開削を出願し、開拓民を募集して寛永一六年(一六三九)から自普請による工事が始められた。江草村八巻で塩川から取水し、同村根古屋から仁田平まで暗渠、また浄古寺山も暗渠で通し、六年かかって正保元年(一六四四)に上手村(現明野村)永井まで完成した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
朝穂堰
ちょうほぜき
山梨県北西部,北杜市と韮崎市にまたがる用水路で,浅尾堰と穂坂堰の総称。浅穂堰ともいう。用水路延長約 31km。浅尾堰は寛永 16 (1639) 年着工し正保1 (1644) 年に完成。北杜市の八巻地区で塩川から取水し,浅尾地区にいたる約 11.4kmの水路。上神取村 (現北杜市) の十右衛門と村山東割村 (現北杜市) の清右衛門の二人が中心となり工事が進められ,53戸の浅尾新田が誕生し,260石を検地。穂坂堰は享保3 (1718) 年着工の官営工事で,風越山に隧道をうがち韮崎市の三之蔵,宮久保,三ッ沢にわたる旧穂坂牧を貫流する約 15kmの用水路。 180日あまりで完成した。明治5 (1872) 年から両堰を合わせて朝穂堰と呼ぶようになった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報