朝野鹿取(読み)あさののかとり

改訂新版 世界大百科事典 「朝野鹿取」の意味・わかりやすい解説

朝野鹿取 (あさののかとり)
生没年:774-843(宝亀5-承和10)

平安初期の貴族文人。もと大和国人で,正六位上忍海原鷹取の子。叔父従六位上朝野道長の子として出身した。大学に学び,文章生となる。遣唐准録事として入唐。式部録,左大史ののち,811年(弘仁2)嵯峨天皇皇太子のとき侍講であったことにより従五位下となる。左近衛少将,主殿頭,内蔵頭,兵部大輔をへて,820年従四位下,のち中務大輔,民部大輔,また嵯峨天皇の蔵人,蔵人頭。ついで左中弁,大宰大弐,833年(天長10)仁明天皇即位とともに参議となる。式部大輔,左大弁,民部卿をへて,842年(承和9)従三位となり,また宿禰(すくね)を改めて朝臣(あそん)を賜った。このとき,武内宿禰六男葛木(城)襲津彦の後裔と見える。能吏として知られ,《日本後紀》(840),《内裏式》(821)の編纂に参加した。文才にとみ,《文華秀麗集》に6首採られており,また大歌をよくしたという。
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朝日日本歴史人物事典 「朝野鹿取」の解説

朝野鹿取

没年:承和10.6.11(843.7.11)
生年宝亀5(774)
平安初期の公卿,文人。大和国正六位上忍海原鷹取の子。大学での勉強に当たり,家格の低さから叔父である正六位上朝野道長の養子となって都に上ったが,延暦11(792)年自ら申し出て父の戸籍(本姓)に戻っている。「すこぶる史漢に渉り,かねて漢音を知る」といわれ,その知識を買われて同21年遣唐准録事(准主典)として入唐,帰国後は『日本後紀』『内裏式』の編纂に携わる一方,皇太子神野親王(のちの嵯峨天皇)の侍講を務めている。天長10(833)年参議に昇進,博識の能吏として人望も厚かった。その詩文は『文華秀麗集』に収める。神楽歌や催馬楽など宮廷儀礼歌の名手でもあった。

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「朝野鹿取」の解説

朝野鹿取 あさのの-かとり

774-843 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
宝亀(ほうき)5年生まれ。大学寮にまなび,文章生(もんじょうしょう)となる。延暦(えんりゃく)23年唐(とう)(中国)にわたり,翌年帰国。嵯峨(さが)天皇の侍講。天長10年参議となり,左大弁,民部卿(きょう)などを歴任,従三位にいたる。「内裏式」「日本後紀」の編修にくわわり,詩は「文華秀麗集」に6首がおさめられている。承和(じょうわ)10年6月11日死去。70歳。本姓は忍海原(おしぬみはら)。

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