木村熊二(読み)キムラ クマジ

20世紀日本人名事典 「木村熊二」の解説

木村 熊二
キムラ クマジ

明治期の教育者,牧師 明治女学校創立者;小諸義塾創立者。



生年
弘化2年1月25日(1845年)

没年
昭和2(1927)年2月28日

出生地
京都

出身地
兵庫県出石郡出石町

旧姓(旧名)
桜井

学歴〔年〕
ホープカレッジ(米国ミシガン州)卒

学位〔年〕
神学博士(ホープカレッジ)〔明治9年〕

経歴
出石藩儒桜井一太郎の二男として京都で生まれる。幼くして父を失い、7歳で上京、父の高弟木村琶山の養子となる。昌平坂学問所に学ぶ。18歳の時に幕府に登用され、長州征伐などに従う。明治3年森有礼に随行して渡米し、ミシガン州ホープ・カレッジを卒業、のちラトガス大学所在のニュー・ブランスウィックに移って神学を、ニューヨーク大学で医学を学ぶ。15年宣教師の資格を得て帰国し、キリスト教伝道に従事。18年妻鐙子とともに明治女学校を創立。25年長野県佐久に移住。26年小諸義塾を開き、島崎藤村らを教師に迎えたことは有名。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「木村熊二」の解説

木村熊二

没年:昭和2.2.28(1927)
生年:弘化2.1.25(1845.3.3)
牧師,教育家。出石藩(兵庫県)儒臣桜井石門(一太郎)の次男。聖堂都講木村琶山の養子となり,昌平坂学問所に学ぶ。田口卯吉の姉鐙と結婚。明治3(1870)年森有礼に従い渡米,ホープカレッジ,ニューブルンスウィック神学校で学び,牧師資格を取得,15年帰国す。18年明治女学校を,26年信州に小諸義塾を開き,キリスト教伝道のかたわら青年子女の教育,果樹栽培指導などに尽力貢献した。その地道な伝道,教育に一生を献げた人となりは,『資料木村熊二日記』(東京女子大学比較文化研究所)からもうかがえる。

(下山孃子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「木村熊二」の解説

木村熊二 きむら-くまじ

1845-1927 明治-大正時代の牧師,教育家。
弘化(こうか)2年1月25日生まれ。木村鐙子(とうこ)の夫。但馬(たじま)(兵庫県)出石(いずし)藩儒桜井石門の次男。幕臣木村家をつぐ。明治3年森有礼(ありのり)にしたがい渡米,キリスト教神学をまなぶ。15年に帰国し,改革派宣教師として伝道につくす。18年明治女学校を,26年小諸(こもろ)義塾を創設。昭和2年2月28日死去。83歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の木村熊二の言及

【明治女学校】より

…1885年木村熊二・鐙子夫妻が東京九段に創設したキリスト教主義の女子中等教育機関。最盛期は明治20年代で,巌本善治(1887年教頭,92年2代校長)の努力によるところが大きく,300名もの生徒が学んだ時期もある。…

※「木村熊二」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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