1885年木村熊二・鐙子夫妻が東京九段に創設したキリスト教主義の女子中等教育機関。最盛期は明治20年代で,巌本善治(1887年教頭,92年2代校長)の努力によるところが大きく,300名もの生徒が学んだ時期もある。英語,漢文,数学のほか自然科学関係の科目も重視され,教育程度は高く,文学会,クリスマス祝会など課外活動も活発で,寮は自治に任されるなど自由な雰囲気に満ちていた。島崎藤村,北村透谷らも一時期教壇に立ち,卒業生の中からは山室機恵子,羽仁もと子,相馬黒光,大塚楠緒子,野上弥生子らのすぐれた女性を輩出させた。しかし,96年の校舎全焼を機に急速に衰運に向かい,1908年暮れに最後の卒業生を送ったあと廃校となる。
執筆者:千野 陽一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 欧米に追いつくために教育に重点をおいた初期の明治政府は,1871年(明治4)に津田梅子ら5人の女性をアメリカ合衆国に留学させ,72年には学制を発布して男女平等の義務教育を実施し,74年には東京に女子師範学校(現,お茶の水女子大学)を設立した。だがやがて良妻賢母主義が主張され,家庭の守り手としての女子教育が重視されるようになり,それへの批判として,巌本善治は自由主義的教育をめざす明治女学校を設立した。また津田梅子は女子英学塾(現,津田塾大学)を,吉岡弥生は東京女医学校(現,東京女子医科大学)を創設した。…
※「明治女学校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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