日本歴史地名大系 「木積村」の解説 木積村こつみむら 大阪府:貝塚市木積村[現在地名]貝塚市木積水間(みずま)村南東の南郡の村。村域は蕎原(そぶら)川沿いに山間部に達している。和泉一国高附名所誌(小谷家文書)は小邑として片山(かたやま)・下出(しもで)・南山(みなみやま)・脇出(わきで)・男内畑(おないはた)・上出(かみで)・小原出(こはらで)を記し、これらが盆地内および山間部に点在している。神亀三年(七二六)聖武天皇の勅願によって建てられたと伝え、のち孝恩(こうおん)寺に併合された観音寺があった。同寺の寺伝によると行基が畿内に四九院を建てたとき、材木は和泉国木島(きのしま)杣山から搬出したが、当村はその材木を積んだところで、村名はこのことにちなむという。当村から蕎原村へ通ずる山道の途中に道陸(どうろく)神社があり、その南東の標高三四五メートルほどの高地に蛇谷(じやたに)城跡がある。 木積村きづみむら 千葉県:八日市場市木積村[現在地名]八日市場市木積久方(ひさかた)村の東に位置し、北は香取郡八辺(やつぺ)村。中世は匝瑳南条(そうさなんじよう)庄に属したとみられる。天正年間(一五七三―九二)と推定される年月日未詳の領知目録写(神保文書)に「十二貫 木つみ」とみえ、当地が坂田(さかた)城(現横芝町)城主井田氏の支配下に属し、その家臣(三谷氏か)が当地内で一二貫文の地を知行していた。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では久方組に属し、高三三〇石で旗本堀領。以後幕末まで同氏領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三七六石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by