日本歴史地名大系 「木造庄」の解説
木造庄
こつくりのしよう
久我家の荘園として知られるが、荘域などについては史料がなく、近世の木造村を中心とする辺りと比定するにとどまる。この荘の名は寿永三年(一一八四)四月五日付源頼朝下文案(久我家文書)において、平家滅亡後、頼朝が池禅尼の恩義に報いるために池大納言(平頼盛)家に対し安堵した荘園一七ヵ所のなかの一つとして現れる。荘園としての成立については、安貞三年(一二二九)二月二〇日付平光盛譲状案(同文書)に「木造は先祖越前守正度の領、六七代になりて候」と述べられており、また観応元年(一三五〇)八月一三日付久我長通譲状(同文書)に「木造庄 平家根本領」という注記もあって、元来は平正度以来伊勢平氏に伝えられた所領であったと考えられる。しかし同時に、寛喜元年(一二二九)六月付円性処分状(同文書)には「伊勢国木造庄六条院領」と注記されていて、六条院が本所と認められる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報