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北畠満雅 きたばたけみつまさ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北畠満雅
きたばたけみつまさ

[生]?
[没]正長1(1428).12.21. 伊勢
室町時代伊勢国司。顕泰の子。南北両朝合一ののちも大覚寺統を支持し,正長1 (1428) 年,後亀山天皇の皇子小倉宮を奉じて挙兵,敗死。 (→北畠氏 )

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉の解説

きたばたけ‐みつまさ【北畠満雅】

[?~1428]室町時代の武将。伊勢国司。南北朝合一後も南朝を支持、小倉宮を奉じて挙兵するが幕府軍に敗れて戦死。

出典|小学館
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北畠満雅 きたばたけ-みつまさ

?-1429* 室町時代の武将。
北畠顕泰(あきやす)の次男。伊勢(いせ)国司。称光天皇の即位にあたり,両統迭立の約束に反したとして応永21年挙兵。つぎの後花園天皇の即位の際も,ふたたび後亀山天皇の孫の小倉宮を奉じて挙兵して土岐持頼(とき-もちより)とたたかい,正長(しょうちょう)元年12月21日伊勢(三重県)安濃(あの)郡で敗死した。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

北畠満雅

没年:正長1.12.21(1429.1.25)
生年:生年不詳
室町時代の武将。伊勢国司北畠顕泰の長男。応永9(1402)年伊勢国司。満雅の「満」の字は将軍足利義満の諱の1字と考えられるが,室町幕府とは生涯妥協せず,南北両朝合体の条件履行を迫り続けた。幕府体制の安定を狙う将軍足利義教にとって,その存在は鎌倉公方と並ぶ脅威となり,2度にわたる軍事衝突が起こった。1度目は応永21(1414)年。満雅は,持明院統後小松天皇のあとその子称光天皇が即位するのを違約として挙兵し,大和宇陀郡の国人沢・秋山両氏らと共に幕府軍に抵抗,やがて和した。2度目は正長1(1428)年。称光天皇のあと後花園天皇(後小松天皇の猶子)が即位するのを違約とし,南朝最後の後亀山天皇の孫小倉宮(聖承)を奉じて反旗を翻した。しかし利あらず,同年12月21日,安濃郡岩田(津市)の戦で満雅はついに敗死,その後,伊勢国司の勢力はしばらく衰えた。

(西山克)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

きたばたけみつまさ【北畠満雅】

?‐1428(正長1)
室町時代の武将。北畠顕泰の次子。左中将。1403‐7年(応永10‐14)ころに伊勢国司を襲封したという。彼の治世期,伊勢国司は南北両朝合一後の領国支配に対応して,奉行人組織等の整備をはかり,これ以後の展開に一時期を画した。しかし彼は14年天皇践祚についての合一条件(両統迭立)の不履行に怒り,小倉宮聖承を奉じて幕府に反旗を翻し,28年伊勢安濃郡岩田川の戦で敗死した。【西山 克】

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大辞林 第三版の解説

きたばたけみつまさ【北畠満雅】

?~1428) 室町時代の武将。伊勢国司。多気郡を拠点として南北朝合一後も南朝を支持、小倉宮を迎えたが敗死。

出典|三省堂
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世界大百科事典内の北畠満雅の言及

【伊勢国】より

…旧国名。勢州。現在の三重県東部。
【古代】
 東海道に属する大国(《延喜式》)。国名は,〈伊勢国風土記〉逸文に,伊勢津彦が国土を献じ,風を起こし波に乗って東方に去ったので,神武天皇の命により国神の名をとって命名したという説話がある。〈神風の〉という伊勢の枕詞もこれによる。国府は現,鈴鹿市国府町にあった。桑名,員弁(いなべ),朝明(あさけ),三重,鈴鹿,河曲(かわわ),奄芸(あむぎ∥あんへ),安濃,壱志(いちし),飯高,多気(たけ),飯野,度会(わたらい)の13郡を管する。…

【北畠氏】より

…鎌倉・室町時代の公家。三国司家の一つ。村上源氏。源通親の孫中院雅家が北畠氏を称し,その曾孫親房のとき,後醍醐天皇の信任をうけ,南朝の重鎮として活躍。さらにその三男顕能は1338年(延元3∥暦応1)閏7月初めて伊勢国司に就任し,以後戦国最末年に至るまでその拠城となった一志郡多気城に拠った。2代顕信は顕能の兄にあたる。彼は伊勢国司に関する基本文献,斎藤拙堂の《伊勢国司記略》には触れられていないが,残存史料から見てその在職は確実である。…

【後南朝】より

…これが後南朝で,その主となったのは多く後村上天皇の皇子説成親王(上野宮)の子孫であった。しかしその勢力は微弱で,14年(応永21)伊勢の北畠満雅が後亀山上皇の招きに応じて挙兵したことはあったが,28年(正長1)満雅が再度の挙兵で敗死してからはまったく無力となり,その後の後南朝側の動きとしては,43年(嘉吉3)将軍義勝夭逝の隙に乗じて禁裏に夜討ちをかけ神器を奪取した事件,44年(文安1)の説成親王の子円満院宮円胤の紀州における挙兵などが目につく程度で,ほとんど見るべきものはない。67年の応仁の乱以後は大覚寺統の皇胤はあらわれなくなり,後南朝は自然消滅の途をたどった。…

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