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北畠具教 きたばたけとものり

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

北畠具教
きたばたけとものり

[生]享禄1(1528)
[没]天正4(1576).12.26.
戦国時代の伊勢国司。晴具の長男。織田信長に伊勢を侵略され,信長の次男信雄を養子とした。のち信長に謀殺され,国司家は断絶した。 (→北畠氏 )

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北畠具教 きたばたけ-とものり

1528-1576 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)元年生まれ。北畠晴具(はるとも)の長男。伊勢(いせ)国司。織田信長に攻められ,永禄(えいろく)12年伊勢(三重県)大河内(おおこうち)城をすてて降伏。信長の次男信雄(のぶお)を長男具房(ともふさ)の養嗣子とし,国司をゆずる。塚原卜伝(ぼくでん)にまなび,剣客としても知られる。天正(てんしょう)4年11月25日信長の命をうけた旧家臣におそわれて自刃(じじん)し,北畠家は滅亡した。49歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

北畠具教

没年:天正4.11.25(1576.12.15)
生年:享禄1(1528)
戦国時代の武将。伊勢国司北畠晴具の長男,母は細川高国の娘。天文6(1537)年の叙爵以降,朝位朝官を歴任し,弘治3(1557)年には正三位に叙された。北畠氏は具教の時期に極盛期を迎えるが,永禄12(1569)年8月,織田信長の総攻撃を受けた。一族の精鋭は大河内(三重県松阪市)に籠城して持ちこたえ,信長の次男茶筅丸(信雄)を具教の長男具房の養子とすることで和議が成立した。しかし天正4(1576)年,具教は織田方に籠絡された旧臣に三瀬御所(三重県大台町)で暗殺され,北畠氏はここに滅んだ。三重県飯高町野々口御所尾山に具教の首塚がある。

(西山克)

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世界大百科事典 第2版の解説

きたばたけとものり【北畠具教】

1528‐76(享禄1‐天正4)
戦国時代の武将。伊勢国司。晴具の子。代々伊勢国一志郡多気を根拠地として勢力をふるったが,のち松坂大河内城に移る。1569年(永禄12)織田信長の再度にわたる伊勢攻略に和を請い,条件として信長の次子信雄を養子とした。具教は大河内城を退いたのち,翌年剃髪し,多気郡三瀬に隠退したが信長の謀略にかかり,旧臣の手により殺害された。【内藤 範子】

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大辞林 第三版の解説

きたばたけとものり【北畠具教】

1528~1576) 戦国時代の武将。伊勢国司。織田信長の次男を嫡子具房の養嗣子とし信雄と名のらせて伊勢国司を譲るが、信雄らに謀られ自刃した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北畠具教
きたばたけとものり
(1528/1531―1576)

戦国時代の武将。伊勢(いせ)国司。晴具(はるとも)の長男。母は細川高国(たかくに)の娘。1537年(天文6)に従(じゅ)五位下・侍従となり、以後権中納言(ごんちゅうなごん)・正三位(しょうさんみ)に累進したが、63年(永禄6)に父の喪により辞職。58年(永禄1)に長野藤定(ふじさだ)と戦い、和議により二男具藤(ともふじ)をその嗣子(しし)とさせ、永禄(えいろく)年中(1558~69)には赤堀氏を滅ぼすなど北伊勢に進出した。しかし、69年に弟の木造具政(こづくりともまさ)が織田信長を引き入れたため、大河内(おおかわち)城(三重県松阪市大河内町)に立てこもって戦ったが、和睦(わぼく)し、信長の二男茶筅丸(ちゃせんまる)(具豊(ともとよ)のち信雄と改める)を嫡子具房(ともふさ)の嗣子とすることになり、具豊と名のらせた。70年(元亀1)出家、天覚または不智斎(ふちさい)と号した。75年(天正3)に家督を具豊に譲り、三瀬(みせ)館(三重県多気(たき)郡大台町)に移ったが、武田信玄(しんげん)と通じたり、熊野勢の蜂起(ほうき)を進めたとの風聞もあり、天正(てんしょう)4年11月25日、信長の命で旧臣らが襲い、一族とともに殺され、北畠氏は滅んだ。和歌をよくし兵法を塚原卜伝(ぼくでん)に学んだという。[石田晴男]
『大西源一著『北畠氏の研究』(1960・鹿東文庫) ▽『伊勢国司略記』(1976・三重県郷土資料刊行会)』

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世界大百科事典内の北畠具教の言及

【北畠氏】より

…鎌倉・室町時代の公家。三国司家の一つ。村上源氏。源通親の孫中院雅家が北畠氏を称し,その曾孫親房のとき,後醍醐天皇の信任をうけ,南朝の重鎮として活躍。さらにその三男顕能は1338年(延元3∥暦応1)閏7月初めて伊勢国司に就任し,以後戦国最末年に至るまでその拠城となった一志郡多気城に拠った。2代顕信は顕能の兄にあたる。彼は伊勢国司に関する基本文献,斎藤拙堂の《伊勢国司記略》には触れられていないが,残存史料から見てその在職は確実である。…

【松阪[市]】より

…南北朝期以降,北畠氏の支配が一帯に及ぶが,戦国時代になると,1560年(永禄3)大湊(現,伊勢市)からの使船が細汲に派遣されているなど,宿場・港町として発展しつつあった。 他方,永禄年間に北畠具教(とものり)が細汲に築城し,69年織田信長の伊勢侵攻のとき,城将日置大膳亮が同城で抵抗後,自焼したと伝え,北畠勢は阪内川上流の大河内(おかわち)城に籠城し,やがて和議を結ぶ。71年(元亀2)には北畠具教は,細汲に釜をすえた他国の鋳物師(いもじ)の営業を禁止し,蛸路(たこじ)や阿波曾(あわそ)に居住する当国の鋳物師に保護を与えている。…

※「北畠具教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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