鞆田庄(読み)ともだのしよう

日本歴史地名大系 「鞆田庄」の解説

鞆田庄
ともだのしよう

現阿山町上・中・下友田付近に比定される。東大寺領と六条院領(永長二年立荘)が当地に入交じって存在した。東大寺領の淵源は元慶(八七七―八八五)頃、前阿波守藤原万枝が開発し子孫が相伝した地と(承保四年一〇月二三日「僧覚増解案」村井敬義氏本東大寺文書)、天徳二年(九五八)北方玉滝たまたき杣の東大寺施入に伴い開発された地にある(保安四年九月一二日「明法博士勘状案」東大寺文書)。前者はのち東大寺領に吸収されたと推定される。

天喜三年(一〇五五)一〇月九日の伊賀守小野守経請文(同文書)によれば玉滝杣縁辺の住人が所当官物を弁じなかったため、国司小野守経が正月中旬当村に赴いたところ、住人は各家の「柴戸」を閉じて姿を見せなかった。しかし、山中から群党が現れ国司が引連れていた牛馬三頭を奪い取り、舎屋に放火した。二月になると米穀牛馬等を山中に隠しているとの情報があり再び当村に向かった。住民の姿は見えず、帰ろうとしたところ、山中から天を響かすときの声が上がり国司を驚かせた。彼らは国司や使者入部があれば攻撃するようにと東大寺別当の命令があったと答えて矢を射てきたため、国司らは証拠の矢を拾い逃帰ったという。しかし杣工等は守経が杣人の住宅を焼き田畠を損なったため逃散したと主張している(同四年三月一〇日「伊賀国玉滝杣湯船等四村工解」東南院文書)。同六年正月、宣旨により東大寺領として示が打たれ、住人は還住し耕作を始めた。しかし次の国司藤原資良が国役を催促したため「田堵工等捨鋤鍬」逃散した(同年三月一九日「伊賀国玉滝杣司等解」同文書)

永長二年(一〇九七)平正盛白河院に接近するため六条院へ寄進した当村にある家地・田畠を注進し(同年八月二五日「六条院領伊賀国山田村鞆田村田畠注文」東大寺文書)、六条院領鞆田庄が成立した。天永二年(一一一一)、東大寺が御封米を請取っていながらその八〇石を国衙へ弁済せよと命じたため、住人らは六条院領鞆田庄預所平正盛に、自分たちは玉滝杣寄人として公田に出作してその官物を東大寺御封に充て同寺役を勤めてきたが、当地が六条院領となったため同院役を勤め、官物は以前のとおり御封米として東大寺に弁済するようになったと訴えている(同年一二月一四日「伊賀国鞆田庄住人解」東南院文書)。永久三年(一一一五)東大寺は、鞆田村の田一三町と都介つげ(現奈良県山辺郡)の田四〇余町が六条院領に取込まれ、四〇人の杣工がその作人となって寺家の命に従わなくなったと訴えた。


鞆田庄
ともだのしよう

三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)山辺郡として、

<資料は省略されています>

とみえる。興福寺大乗院領荘園であり、喜多きた院二階堂は預所と考えられる。その得分の三分の一は大乗院方国民三谷氏の得分となっている。鞆田氏は当庄と越田尻こしたしり庄の給主職(三箇院家抄の坊人給分)と当庄内の水分みくまり宮の神主職をもっており、大乗院方衆徒であった(大乗院雑事記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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