本吉町(読み)もとよしまち

日本歴史地名大系 「本吉町」の解説

本吉町
もとよしまち

[現在地名]美川町今町いままち中町なかまち南町みなみまち北町きたまち新町しんまち永代町えいだいまち神幸町じんこうまち浜町はままち末広町すえひろまち和波町わなみまち

手取川河口右岸の海岸沿いに位置する町場で、河口港の本吉湊を有した。対岸は能美のみみなと村。元吉とも記す。「加能郷土辞彙」などによると、旧名を藤塚ふじつかと称し、のち藤塚村と羽佐場はさば村を併せ、藤塚山王社(現在の南町の藤塚神社)の別当元吉寺の号にちなみ元吉と称したが、その後佳字を採用し本吉と称したという。江戸期に入ると河口は船溜として相当の船の出入りがあり浦方奉行が置かれていた。承応元年(一六五二)本吉町奉行が置かれて町立てとなったとされるが(石川郡誌)、一説に町立ては明暦三年(一六五七)以降ともいう(加賀志徴)。なお、江戸期を通じて郷帳・村御印には本吉村とみえる。時衆過去帳(清浄光寺蔵)などによると、至徳三年(一三八六)から室町中期にかけて、「元吉」に哀阿弥・弥阿弥・眼阿弥・見一房といった時衆や「聖号寺」という時宗道場の存在が知られる。

正保郷帳では高四七八石余、田方二二町八反余・畑方九町余、新田高一二八石余(免二ツ七分七厘)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高五七五石、免七ツ、小物成は鮭役五四五匁・鱒役五九匁・外海引網役三〇九匁・外海船櫂役三貫一八匁・猟船櫂役一八二匁五分・尻巻網役六〇匁・六歩口銭七五匁・九分三分口銭三〇八匁(美川町近代産業史)


本吉町
もとよしちよう

面積:一〇六・八二平方キロ

東は太平洋に面し、北は気仙沼けせんぬま市に続く。西は岩手県東磐井ひがしいわい室根むろね村・藤沢ふじさわ町、登米とめ東和とうわ町に接し、南は歌津うたつ町である。海岸部に沿って国道四五号とJR気仙沼線が通り、津谷つや地区から馬籠まごめ川に沿って国道三四六号(西郡街道)が西に走り、内陸登米郡と結ばれる。同じく津谷から津谷川に沿って北西に走る道があり、岩手県の内陸部に続く。北・西・南の三方を三〇〇―五〇〇メートルほどの山に囲まれ、平地は少ない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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