本川村
ほんがわむら
面積:二〇八・三四平方キロ
土佐郡北西部に位置し、東は大川村・土佐町、北から西にかけては愛媛県宇摩郡別子山村・新居浜市・西条市・上浮穴郡面河村、西から南は吾川郡池川町と吾北村。県境の西から北にかけては四国山地の筒上山(一八五九・三メートル)・岩黒山(一七四五・六メートル)・伊吹山(一五〇二・八メートル)・子持権現山(一七〇九・七メートル)・瓶ヶ森(一八九六・五メートル)・伊予富士(一七五六メートル)・平家平(一六九二・六メートル)などの高山が連なる。
本川村
ほんがわむら
[現在地名]小田町本川
町村の東、小田川を挟んで集落が発達している。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高五百九拾壱石六斗六升四合 本川村 雑木山少有、茅山有、川有」と記す。
戦国時代、この地に久万大除城の枝城本川城(町村城とも)があり城主土居下野守方英と伝える。現在古城跡を城の内とよび、周囲二〇〇メートル近い細長い古池を残している。内堀跡であろうか。「大洲旧記」本川村の条に「古城 土井下野守越智方英 天正二年元親と合戦討死と云。其子弥九郎、此城を守一統落城の時、久万山大川村ニ立去と云」と記し、「伊予温故録」に大川村(現美川町)の庄屋家の祖となったとある。
本川村
ほんかわむら
[現在地名]酒田市本川
茨野新田村の北東、大槻新田村の南西にあり、庄内平野の東部、最上川右岸に位置する。本川遺跡は平安期の集落跡で、須恵器が出土した。文禄年間(一五九二―九六)大町溝の開削によって成立した村で、山楯村(現飽海郡平田町)の農民が開発したとされる。慶長一六年(一六一一)本田八〇〇束刈・米七石余、出田三二二束刈・米二石余、同一三年からの興田などを加えて田二千二八〇束刈、興畑二石余、米合計二一石余。居屋敷五・明屋敷五(「検地帳写」本川区有文書)。元和二年(一六一六)本河村興目が合せて一千一〇〇刈・米七石余(「興目検地帳」同文書)。
本川村
ほんがわむら
[現在地名]大川村高野
南流する大北川が吉野川に合流する付近、山間の村で、本川郷の本村。宝永三年(一七〇六)の「本川郷風土記」(南路志)に「高野村」とみえ、東西一里余南北三〇町余で、「惣体土地黒、在所南向南下り之所也」と記す。元禄郷帳は「古者高野村」と記す。
慶長一六年(一六一一)の本川之内高野村検地帳によれば、ほとんど山畠で楮・茶が栽培され、地積一〇代の「土ゐヤシキ」があって名本少介が居住。元禄地払帳によると本田は九石余で五名の給田となっているが、新田はない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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