小田町
おだちよう
面積:一三九・八七平方キロ
上浮穴郡の西南部に位置する山間地帯の町。標高一四五―一三〇〇メートル。耕地の大部分は二〇度以上の急傾斜をなす段々畑で、標高六〇〇メートル以上に広がる山林が町の総面積の七五パーセントを占める。伊予灘に注ぐ肱川の支流小田川が町内の中央部を東西に流れ、西の喜多郡内子町に接する地点で北からの田渡川を合わせる。
小田町
おだまち
[現在地名]会津若松市宝町・城東町
外小田垣の東および南に数条の通りがあり、これをすべて小田町と称した(新編会津風土記)。外小田垣の隍端丁の東から南に折れて河原新丁に出る通りは長さ四五間・幅九尺、家数一三。隍端丁の東に続き、小田町に出る通りには家数八。河原新丁より北に折れ、東に回ってまた河原新丁に出る小路に家数八。これをすべて組町といい、家数は合せて二九あった。組町の北東に厩町があり、東は極楽寺前通より西は郭外の堀端に至る、長さ一町余・幅三間、家数二四。
小田町
おだちよう
[現在地名]宇都宮市塙田三丁目・宮町
東の扇町から続く東西の小さな町人町。西は宇都宮大明神の山下を南北に抜ける道に突当る。北は塙田村、南に能延寺がある。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)にみえる。もと塙田村の内で、慈心院の跡地に成立したという。宝永七年(一七一〇)の町分掃除丁場は三番組一一八間のうち五間を受持ち、城内草刈人足は二人を差出す(宇都宮史)。享保四年(一七一九)の宇都宮大明神祭礼図(高橋節子蔵)によれば、三四番目に幟三本を出す。元文年間(一七三六―四一)の町方書上帳(高橋節子文書)によれば、小田町は城下町の内ではあったが、名主は塙田村が兼帯していたと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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