大川村(読み)おおかわ

共同通信ニュース用語解説 「大川村」の解説

大川村

愛媛県境の山間部に位置し、周囲を千メートル級の山々が囲む。銅を産出した白滝鉱山で栄え1960年に約4千人まで達した人口は、鉱山の閉山や四国の水がめと言われる早明浦ダム建設に伴う中心集落の水没などで激減。5月現在の人口は約400人で、村民の約45%が65歳以上と高齢化が進む。村議会は2003年に定数を10から8に削減。それでも欠員1の状態が続き、07年からは定数6となっている。

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日本歴史地名大系 「大川村」の解説

大川村
ふーがーむら

[現在地名]石垣市大川おおかわ

四箇しいか村の一。登野城とうぬすく村の西に隣接する。村域は南北に細長く、南は海に臨み、北はバンナ(番名)(二三〇・一メートル)に及ぶ。集落は浜から北へ延び、北端に大石垣うしやぎい御嶽がある。古くは東からクシィマタパカ(アンヌパカ)、ハンナパカ(ナカヌパカ)、フーガーパカ、プンナーパカの四つのハカに区別されていたという。集落の西側に黒毛の犬が見つけたと伝える大川井ふーがーなーがあり、地名はこの井に由来するという。井戸にまつわる民謡も多く、「東の井戸節」は「大川村の 寅の方 明き屋敷あまた 井戸ねんゆいど 人や寄らん(大川村の北東方は空屋敷が多く、井戸のない故に人は寄らない)」と謡い、それで協力して井戸を掘って屋敷のない者が集まって住みつき繁盛したと謡っている。なお集落北東隅、現八重山農林高校の近くには大川与人の松茂姓六世当儀が掘らせた世持ゆむちい井戸がある(松茂姓小宗家家譜)。また「田補佐井戸節」も当村の井戸掘りのウタで、村中が力を合せて田補佐たぶさ井戸を掘り繁盛した喜びを謡っている。


大川村
おおかわむら

[現在地名]五城目町大川大川

馬場目ばばめ川の下流左岸、三角州の先端部に位置する。北は川を隔てて一日市ひといち(現八郎潟町)、南は今戸いまど(現井川町)、東は下樋口しもとよぐち村に接する。

「三代実録」元慶二年(八七八)七月一〇日条に、元慶の乱に際し蜂起した蝦夷の「賊地」一二ヵ村の一として「大河」があげられている。

「吾妻鏡」文治六年(一一九〇)一月六日条に、頼朝の奥州支配に抵抗して軍を起こした大河兼任は「秋田大方」(八郎潟)の氷上を徒渉し、五千余人が溺死したとある。大河兼任は大川村を含む秋田城以北一帯に勢いを張る豪族であったと考えられる。東屋敷ひがしやしき西屋敷にしやしきの字名があり、天正年間(一五七三―九二)秋田実季に味方した大川左衛門(奥羽永慶軍記)の跡地と伝える。同一九年の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「参百拾壱石四斗壱升八合 大川村 一日市村」とあり、翌文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)には「弐百八拾六石九斗弐升壱合 大川村」とある。


大川村
おおかわむら

[現在地名]岩泉町大川

二升石にしよういし村の西に位置する。大河村とも記した。南に高く押角おしかど(標高六四四メートル)さかいかみ(一三一九メートル)害鷹がいたか(一三〇四・六メートル)がそびえる。北部を大川が東流。集落および耕地はほとんどこれらの流域に開かれる。大川氏の譜(参考諸家系図)によれば、大川氏は盛岡藩初代藩主南部信直から当地に一五〇石を与えられている。大川氏は閉伊氏の後胤で、当村開発の村地頭であった。正保国絵図では高七三石余。元禄十郡郷帳による〆高は畑方一九二石余のみ。安永五年(一七七六)の宮古代官所支配高帳(小笠原文書)では高二五五石余、うち蔵入高五二石余・高野庄兵衛給地二〇二石余。


大川村
おおかわむら

[現在地名]南部川村清川きよかわ

南部川の最上流部にあり、南部川本流域とその支流ノ川・軽井かるい川流域に広がる大村。西は神野川こうのがわ村およびしま村、北東は福井ふくい村・柳瀬やなせ(現龍神村)。南部川から軽井川沿いに南部竜神街道が通る。慶長検地高目録によれば村高三九五石余、小物成四石二斗三升五合。宝暦一〇年(一七六〇)の南部組大指出帳(「日高近世史料」所収)には大川村はなく、木野川きのかわ軽井川かるいがわ下大橋しもおおはし・大橋・名之内みようのうちとしてそれぞれ別記され、江戸時代末期の「続風土記」はそれぞれ「大川郷分村」と付して村名で記載。天保郷帳は大川村一村で記し、村高四一七石余。

ちなみに大指出帳によれば木野川は高六八石余で、このうちに茶四〇斤分の二石四斗、紙木一四束分の二斗八升を含む。


大川村
おおかわむら

[現在地名]東伊豆町大川

天城あまぎ山系万二郎ばんじろう岳の東側に位置し、村の北側を東流する大川は相模灘に流入する。南北に東浦ひがしうら路が通る。北条氏所領役帳に大川とみえ、もと桑原又三郎が知行していた二〇貫文の地を買得した御馬廻衆狩野大膳亮泰光の所領があった。江戸時代は初め幕府領、宝永五年(一七〇八)相模小田原藩領、延享四年(一七四七)再び幕府領、天明二年(一七八二)旗本松平周防守領、寛政四年(一七九二)幕府領に戻り、天保二年(一八三一)幕府と沼津藩との相給を経て、安政三年(一八五六)全村が沼津藩領となり幕末に至る(韮山町史)


大川村
おおかわむら

[現在地名]瑞浪市陶町大川すえちようおおかわ

恵那山塊が南に延びる東濃高原上にあり、小里おり川最上流の支流大川川に沿う。中馬ちゆうま街道が通る。恵那郡に属する。慶長郷帳には土岐郡として村名がみえ、高一七六石余、旗本小里光親領。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では恵那郡となっている。同九年幕府領となる。正保郷帳では田一三六石余・畑三七石余・山年貢二石余、柴山・草山がある。松雑木御林二ヵ所・二町二反余があった(臼井本元禄郷帳)。天保九年(一八三八)の村明細帳によると田九町三反余・畑四町九反余、家数七二・人数三五〇。諸職は木挽三・山伏一。


大川村
おおかわむら

[現在地名]輪島市町野町大川まちのまちおおかわ

町野川河口付近に位置。同川を挟んで東は時国ときくに村。北は日本海に面する。地先の町野川は大川と称され、時国村との間に渡舟が置かれていた(「重修加越能大路水経」加越能文庫など)。元亀三年(一五七二)三月五日の田地寄進状(岩倉寺文書)によれば、大川村の百姓七郎右衛門以下数名が対岸の「岩蔵寺拾穀坊」に対して二〇刈の田地を寄進している。天正一七年(一五八九)の給人知行高付帳(下時国家文書)によれば、北村三左衛門取分として高五三二俵余。正保郷帳によれば高一八〇石余、田方一〇町二反余・畑方一町七反余。承応三年(一六五四)の村御印の高一八二石余、免五ツ八歩(能登奥両郡収納帳)


大川村
おおかわむら

[現在地名]阿久根市大川

西目にしめ村の南に位置し、南は高城たき西方にしかた(現川内市)。西は海(東シナ海)に面し、大川川・尻無しなし川などが注いでいる。大川は大河とも記し、地元では「うこ」とも発音する。「鹿児島県地誌」は字地として大川・牛之浜うしのはま・尻無・川畑かわばたをあげる。一五世紀後半頃までは高城郡のうちであったと思われる。薩摩国建久図田帳では高城郡内に「大河三町五段」とみえ、大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)万得まんとく名のうちで、島津庄との間で相論の最中であった。永和四年(一三七八)一二月一九日、高城氏と考えられる真宗は子息釈迦王に「高城のこほり大河村一曲」ほかの所領を譲っている(「真宗譲状」旧記雑録)


大川村
おおがわむら

[現在地名]両津市大川

南は水津すいづ村、西は羽二生はにう村。東端にひめ崎、西側にほとけ崎があり、ほぼ中央部に大河内おおこうち(大川)が流れ、津神つがみ島の出崎がある。東寄りには小河内こごうち川が海に注ぐ。集落は浜方の東組と西組があり、列村形態をなし、姫崎台地上の野城組と三組に分れる。応永一二年(一四〇五)八月一九日の久知本間氏給分帳写(椎泊本間文書)に「反半羽入 六分一名今ハ 相賀入道」とある六分一ろくぶいちは、野城のじように地名として残る。六分一にはかつて惣賀家があった。大河内川・小河内川沿いの段丘上から開発が進んだとみられ、草分は与左衛門・平内太郎と伝える。


大川村
おおかわむら

[現在地名]千倉町大川

千田せんだ村の南に位置し、東は海に面する。大河村とも記した。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高二七三石余、うち田方一七一石余。里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳では御隠居領。正保郷帳では田高二〇二石余・畑高一〇八石余、旗本大久保教勝領(寛永一〇年から)。ほかに東膳(東漸)寺領二斗余。寺領を除き以後大久保家に伝えられたが、天保一三年(一八四二)武蔵忍藩領となる(同一四年忍藩領郷村高帳)


大川村
おおかわむら

面積:九五・〇九平方キロ

土佐郡北部に位置し、北は愛媛県宇摩うま別子山べつしやま村・伊予三島いよみしま市、東から南にかけては土佐町、西は本川ほんがわ村。県境の北は四国山地三ッ森みつもり(一四三〇メートル)大座礼おおざれ(一五八七・五メートル)黒岩くろいわ(一三四一・六メートル)などの高山が連なり、南は、とぎの山(一四九六・七メートル)能谷のうたに(一三六九メートル)などの高山がある。この間を北東に流れてきた吉野川が、村の西部で南東に流れを変え、大北おおきた川を合せる。平地は少なく、わずかに河岸段丘や緩傾斜地があるだけであったが、吉野川下流の土佐町に昭和四八年(一九七三)早明浦さめうらダムが造られたため、わずかな農耕地は水没した。


大川村
おおかわむら

[現在地名]貝塚市大川

近木こぎ川の支流、大川(秬谷川)源流部に位置し、和泉山脈の山あいの村である。秬谷きびたに村の東隣で南郡に属する。鎮守の天神社(菅原神社)には、天文五年(一五三六)一一月に野田山のだやま(根福寺城)城主松浦肥前守が造立した旨記す棟札があった(「和泉郡村記」中之島図書館蔵)。近世初頭の実報院諸国旦那帳(熊野那智大社文書)に「大川」がみえ、熊野那智大社御師実報院の旦那場であった。


大川村
おおがわむら

[現在地名]美川村大川

久万くま川の右岸、北の有枝ありえだ村に対する。広大な南部の山地から流れ出して久万川に注ぐ大川川に沿って集落が散在する。

元和三年(一六一七)の「大野直昌由緒聞書」などに大除おおよけ城の枝城石本いしもと城について「(久万)大川石本城、城主梅木馬之丞、但屋敷梅ノ木」とある。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「高三百壱石壱斗四升 大川村 野山有、柴山有」とあり、内訳は寛保元年(一七四一)頃の「久万山手鑑」によると田八町五反四畝(一七〇石一斗七升)、畑一一町八畝(一三〇石九斗七升)で、五四パーセントが田という久万山くまやまでは比較的水田の多い村である。


大川村
おおかわむら

[現在地名]亀田かめだ郡七飯町大川一―五丁目・字大川・字大中山おおなかやま

近世から明治一二年(一八七九)まで存続した村。久根別くねべつ川中流域にあり、東は鳴川なるかわ(七六九・二メートル)庄司しようじ(五七〇・四メートル)の山麓に続き、大川が久根別川に合流する。開村の時期は不明だが、玉虫「入北記」(安政四年四月一二日条)に「文化ノ度ヨリ少々開ケ居ル」と記される。文化四年(一八〇七)改の家数二〇・人数九二(「松前三ヶ所附東西村調」道立文書館蔵旧記)


大川村
おおかわむら

[現在地名]北淡町野島大川のじまおおかわ

平林ひらばやし村の南西にあり、西は海に面する。海岸沿いに西浦にしうら街道が走る。民家は高松所たかまつじよ小松所こまつじよの二ヵ所にほぼ集中する。正保国絵図に村名がみえ、高三三石余。天保郷帳では高八二石余。反別戸数取調書によると反別一〇町九反余、高一七八石余はすべて蔵入地、家数二六・人数一四八。近世後期には机組に属した。明治一〇年(一八七七)轟木とどろき村・蟇浦ひきのうら村と合併して野島村となる。高松所の中央高岡たかおかに産土神高松神社、神の脇かみのわき大歳おおとし神社がある。


大川村
おおかわむら

[現在地名]中辺路町大川

北は小松原こまつばら村、東は福定ふくさだ村、西は温川ぬるみがわ高原たかはら両村、東南を大内川おおうちがわ村と限る。中央を南西に向かって流れる富田とんだ川に沿う山間集落。小名かいがわは温川村との境付近の高星たかぼし山の麓にある。「続風土記」に「中川鍛冶屋川等に対して云ふなり」と記される。

慶長検地高目録は「大河村」と記し、村高一六五石余、小物成三・二五石。元和五年(一六一九)以降和歌山藩田辺領。三番組に所属。安永二年(一七七三)の大差出書上帳(真砂具岳家蔵)によれば、本田畑一九町九反六畝二三歩、新田畑一町七畝一一歩、家数二一(役家一七・栖在家四)、人数は男六四・女五二、牛六で、種貸利米一・三九七四石、役米二・二六九石、糠藁代米〇・二四七石、二歩銀二〇九匁四分二厘、作物は米・麦・粟・稗・大豆・小豆・蒿麦などで、村内には春日かすが大明神・正八幡、賢遊山松雲しよううん(臨済宗妙心寺派)があった。


大川村
おおかわむら

[現在地名]真野町大川

小佐渡山麓台地上にあり、吉岡よしおか村・竹田たけだ村・名古屋なごや村と入会う。竹田村と入会う阿仏房妙宣あぶつぼうみようせん寺東側に、竹田地頭の配下といわれる大川殿(小田氏)の小城跡が残り、この付近が当村の中心地であったと思われる。上杉氏支配時代には、代官黒金安芸の支配地で、慶長五年(一六〇〇)の検地帳(小田隆氏蔵)に黒金分の記載がある。当村も名古屋村などと同様に低地帯から台地上に移動し、竹田・吉岡などの村と入会になったと思われる。苅高は二千七四〇束苅余。

元禄七年(一六九四)の検地帳(小田隆氏蔵)では田一四町一反余・畑八町五反余。屋敷持は四九筆で地字城ノ内・高立・屋敷ノ脇・竹原などにある。


大川村
おおがわむら

[現在地名]飯山市大字あさひ

さら川上流富倉とみくら道に近く、分道ぶんどう堂平どうだいらの集落へ通じる道筋に立地。

元禄郷帳では高三七石一斗三合であったが、天保郷帳では一二〇石六升八合となった。村内に諏訪宮を祀る。藤木ふじのきとともに、ここも親鸞の旧跡と言い伝える。西に日陰ひかげ城、西北にとびさわ城の二山城跡がある。

享保七年(一七二二)大川村ほか二二ヵ村連名で山中採集の和薬は飯山伊勢いせ町の改会所へ出し、脇へ直売しないよう中野代官所へ請書を出した(和薬取商売人無之候)


大川村
おおかわむら

[現在地名]弘前市大川

岩木川に東面し、北は青女子あおなご村、南は三世寺さんぜじ村、西は高杉たかすぎ村に接する。村名は大川すなわち岩木川に面して発達したことによると思われる。

元和年中御家臣姓名大概(津軽史)の八三騎のなかに「吉町宇右衛門初大川村 二百石吉町善助」とある。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡の新田に村名があり、村高一〇〇・五石。寛文四年(一六六四)の高辻帳では六四七・七石と六倍になる。寛文六年開田のため、当村立木袋たちきぶくろで大川の穿替え、五郎袋ごろうぶくろでは切替えを行っている(津軽歴代記類)。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高五八二・二〇二石、うち田方四五六・二七四石、畑方一二五・九二八石。


大川村
おおかわむら

[現在地名]舞鶴市字大川

志高しだか村の北方由良川左岸に位置し、集落は由良川の自然堤防上および大川神社を挟んだ山脚部にあった。大川神社の南に徹光山てつこうざん古墳があり、さらに南方に小津田こつた経塚がある。また大川神社と三日市みつかいちを結ぶ辺りの由良川川底から、縄文式土器・弥生式土器・土師器・須恵器などが出土し、大川遺跡とよばれる。


大川村
おおかわむら

[現在地名]古座川町大川・真まなご

蔵土くろづ村の西北にある。三尾みと川と佐本さもと川が当村で古座川に流入し、川幅が広くなる。村の北部に小名真砂がある。慶長検地高目録によると村高一〇三石余、小物成三・三二五石。慶安三年(一六五〇)の古座組在々郷組之覚(古座町教育委員会保管)によると、浦組制度による当村の動員体制は家数一三、人数一七、舟一〇(川舟)などであった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大川村」の意味・わかりやすい解説

大川〔村〕
おおかわ

高知県北部,吉野川上流域の村。石鎚山脈の南斜面にあって平地は少い。林業が中心で,畜産,畑作が行われる。江戸時代に始る白滝鉱山は,1972年閉山。奥吉野渓谷をはじめ,大北川渓谷,小金ガ滝,平家平などの景勝地があり,花取太刀踊りが文化財として保存される。面積 95.27km2。人口 366(2020)。

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