本田村(読み)ほんだむら

日本歴史地名大系 「本田村」の解説

本田村
ほんだむら

[現在地名]川本町本田・白草台しらくさだい

現川本町域の荒川南岸東部に位置し、東は大里郡押切おしきり村・三ッ本みつもと(現江南町)男衾おぶすま千代せんだい村・しば村・板井いたい(現同上)、南は比企郡古里ふるさと(現嵐山町)・男衾郡西古里村(現寄居町)本田新田村との境は判然としないが(風土記稿)、西は同村・畠山はたけやま村、北は荒川を境に榛沢はんざわ菅沼すがぬま村・明戸あけと村。吉野よしの川が北東流して三ッ本村・千代村の境に至るが、現在は地内で荒川に合流。御正みしよう堰用水の取水口がある。中世から近世初頭には本田郷のうちとされ、天正一九年(一五九一)八月内藤織部(種次)は「本田之郷内」で一九一石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。かつては上本田郷・下本田郷の呼称があったようで、文禄四年(一五九五)一一月の上本田郷御縄打水帳写(中島家文書)によれば田方一九町三反余・畑方八町余・屋敷三反余、名請人数六二。同年一〇月の下本田郷御縄打水帳写(真下家文書)では田方四〇町余・畑方六四町六反余・屋敷一町九反余、名請人数一七九で本田右近屋敷は縄除けされ、耕地のほとんどが右近ら五名の分付地となっている。寛永二年(一六二五)九月永井五右衛門(長井吉次)は本田郷で一三二石を、翌一〇月有賀半左衛門(種親)は「本田郷之内」で一一八石余を宛行われ(前掲古文書)、以後幕末まで一三二石は永井(長井)家に伝えられた(明治元年「本田村・畠山村高調書付」本田家文書、以下断りのない限り同文書)。寛永四年一一月には、市川茂左衛門(満友)は本田郷内で八二石余を宛行われた(前掲古文書)。田園簿には本多村と記され、田方六〇八石余・畑方四六一石余、幕府領と旗本永井・内藤・市川・有賀など八家の相給。


本田村
ほんだむら

[現在地名]豊浦町本田

本田山の北西麓に位置し、東は岡屋敷おかやしき村・月岡つきおか村。永和三年(一三七七)一一月二二日の宗仙打渡状(山形大学所蔵中条家文書)に「豊田庄本随条」とある。明応六年(一四九七)一二月一三日の水原憲家譲状(大見水原氏文書)には「豊田庄本田村」とあり、憲家が当村を水原又三郎(景家)に譲渡している。慶長三年(一五九八)新発田藩領となり、同一〇年の給知方村々高目録(新発田市史資料)では毛付八三〇石二斗余・荒九三五石四斗余。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によれば計四石八斗の炉役が三〇軒に課されている。正保国絵図に四三〇石余とあり、正保二年(一六四五)の三分家知行目録(新発田市立図書館蔵)によれば、村の一部六六石余が切梅家領、四四石余が池ノ端家領、七一石余が二ッ堂家領となっている。


本田村
ほんでんむら

[現在地名]大門町本田

安吉やすよし村の東、神楽かぐら川左岸に位置。正保郷帳に村名がみえ、高四〇二石余、田方二六町余・畑方八反、ほかに新田高七八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高四八二石、免四ツ五歩(三箇国高物成帳)。同三年の役家数六、うち肝煎家一(「川西家高付帳」川合家文書)


本田村
ほんだむら

[現在地名]二戸市上斗米かみとまい

上斗米村の西に位置する。正保国絵図に村名がみえ、高三九石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高一九石余とあり、七ヵ年平均の免一ツ六分三厘七毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方七〇石余・畑方六九石余、当村へ根森ねもり村が入るとある。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)では給所高一〇五石余のみ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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