千代村(読み)ちよむら

日本歴史地名大系 「千代村」の解説

千代村
ちよむら

[現在地名]小田原市千代

足柄あしがら平野東部の台地周辺に広がり、北は永塚ながつか村、西は延清のぶきよ村、南は高田たかだ村・下堀しもぼり村に接する。西境をきく川、その東を酒匂さかわ堰が流れる。西を酒匂道、東南に大山道が通る。

中世には千葉郷と称され、嘉禄三年(一二二七)二月一二日の将軍藤原頼経袖判下文(県史一)によれば、「千葉郷」ほか五ヵ所が「密厳院下御所地安坊堂本尊・聖教・道具」とともに越後房覚意に安堵されている。弘安九年(一二八六)一一月二九日の将軍源惟康家寄進状(県史二)には「千葉郷内飽間二郎左衛門尉」、暦応四年(一三四一)正月一八日の僧都永承寄進状写(県史三)には「走湯山領相模国千葉郷内観音免」、年未詳の密厳院寺領注文(同書)には「千葉郷」とみえ、走湯山(伊豆山)権現の別当寺密厳みつごん院の所領であった。


千代村
せんだいむら

[現在地名]稲沢市千代町・千代西せんだいにし

東は北島きたじま村・大矢おおや村に接し、村の北境を八神やがみ街道が通り、ひがしきり・中ノ切・西ノ切に分れている(天保村絵図、徇行記)

神鳳鈔」に「千与氏御薗七丁四反」とみえ、伊勢神宮領であった。醍醐寺文書によると、弘安五年(一二八二)浄金剛じようこんごう院領としての千世氏荘坪付注進状案に「一、千世氏名田畠」とみえ、中島郡丹羽郡・愛智郡と広範囲に及んでいる。文和二年(一三五三)良禅・頼忠起請文に「千代氏荘内重枝次□□(郎丸)」とみえ、同年尾張国諸郷保以下年貢并料足用途注文に「千世氏庄直納御年貢納帳」とみえる。中世では千代ちよ千与ちよ千世ちよと呼称したのが、後に千世氏ちようじ庄の一部地域である当村に千代せんだいの呼称が残ったのであろう。


千代村
せんだいむら

[現在地名]砺波市千代

三郎丸さぶろうまる村・宮丸みやまる村の北にあり、西は六十歩ろくじゆうぶ(現高岡市)、北は行兼ゆきかね(現同上)千保せんぼ川跡と新又あらまた川跡の間の微高地に位置し、東方千保川旧流路左岸には霞堤が明治期までみられた。城端じようはな道が南北に通り、祖父そふ川へ通じる舟運もみられた。村名は氏神に千体の仏があったことから、初め千体村と称し、その後千代村と文字が変わったと伝える(貞享元年「村名由緒書上」加越能文庫)。千体仏は現存しない。元和五年(一六一九)の家高新帳に千代とみえ、開発組に属し役家数六。


千代村
せんだいむら

[現在地名]小松市千代町

鍋谷なべたに川とかけはし川の合流点下流右岸の平坦地にあり、南西は能美のみ村、東は国府こくふ村。枝村として東に小野おの町、北東に千代出せんだいで村がある。天正三年(一五七五)八月織田信長軍が越前を攻略、次いで加賀へ侵攻して口二郡(江沼・能美)を蹂躙したため、千代などの村々が信長勢に降伏した(菅家見聞集)正保郷帳では高一千八一一石余、田方七九町九反余・畑方二六町六反余。


千代村
せんだいむら

[現在地名]門前町千代

猿橋さるはし村の西、阿岸あぎし川下流域の阿岸平野に立地。千代神社付近に真言宗の大寺があったと伝え、堂が谷内どうがやち堂の後どうのあと常楽坊じようらくぼう観音坊かんのうぼう伽藍谷がらんだにの地名が残り、付近から平安時代の須恵器土師器も出土、また数基の五輪塔が残る。この古寺を、永禄三年(一五六〇)二月二日の鉄川寺衆徒訴状(宝泉寺文書)にみえる鉄川かなかわ寺門中寺の阿岸千体せんたい寺に比定する説がある。同書によれば、千体寺は鉄川宮(現諸岡比古神社)の祭礼神事役を勤仕しており、当時大寧だいねい寺・瑞林ずいりん寺が知行していた。「能登誌」には当村に泰澄作と伝える観音があるが、千体寺の本尊であろうとする。


千代村
せんだいむら

[現在地名]江南町千代

江南台地中央部北縁に位置し、東は大里郡成沢なりさわ村、西は本田ほんだ(現川本町)、北は同郡三ッ本みつもと村。源威集(東京大学史料編纂所影写本)によれば、文和二年(一三五三)足利尊氏が結城直光に「武州先代」などを与えたといわれ、これは当地のこととされる。天正二〇年(一五九二)三月、武川衆は徳川氏から「せんたいの郷」で一三〇石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。文禄四年(一五九五)一一月の千代村御縄打水帳写(小久保家文書)が残る。田園簿では田方八一石余・畑方三六石余、旗本折井・安藤・本多(本田)の三家の相給。国立史料館本元禄郷帳では旗本折井・本多・田中の三家の相給。


千代村
せんだいむら

[現在地名]三芳村千代

三坂みさか村の東に位置し、東の山下やました村境を平久里へぐり川が南流する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録のきた之郡内に知行方分として千台村とみえ、高二五八石余(うち田一六九石余)。同一五年の里見家分限帳では足軽小頭の岡本領一〇〇石など八氏の分給。正保郷帳ではへい郡内に千代村とあり、高二八五石余で旗本三枝領。以降の領主の変遷は戸川とがわ村と同様。房陽郡郷考では家数五六。慶応四年(一八六八)の組合村々取締定(千代区有文書)に人足の詰場所は高札所で、一人ずつ竹槍をもつなどし、悪党を防ぎかねる際は拝借鉄砲を用い、即死者が出た場合は積金より五両と妻子への手当五〇両を支給するなどとある。


千代村
ちしろむら

[現在地名]守山市千代町

村の北東に位置。寛正の法難によって金森かねがもりに逃げてきた本願寺蓮如を千代城主千代定氏が助けたとの伝承があり、永正八年(一五一一)に実如が下付した絵像が真宗大谷派安楽寺に伝わる。寛永石高帳に村名がみえ、高二三三石余で、うち二〇二石余が膳所藩領、三一石が旗本渡辺領。以後はこの相給のまま幕末に至る。なお旗本渡辺領は元禄郷帳で渡辺二家のうち渡辺進家が継いでおり、以後幕末まで同家に伝えられた。反別は田二二一石余・畑五石余、永荒五石余(慶安高辻帳)


千代村
せんだいむら

[現在地名]静岡市千代・千代一―二丁目

安倍川下流右岸沿いに位置し、南は山崎やまざき新田。仙代村とも書く。慶長七年(一六〇二)には「建穂千代之内荒共ニ」で一五四石余が駿府浅間社(静岡浅間神社)領であった(「横田村詮社領所付覚」志貴家文書)。同一四年の検地では同社領で、正徳年中(一七一一―一六)に替地となったというが(駿河志料)、国立史料館本元禄郷帳では幕府領


千代村
せんだいむら

[現在地名]大台町千代

相鹿瀬おうかせ(現多気町)の南西、宮川の左岸にあり、村の中央を熊野街道が通る。当村は熊野街道に沿って発達した。天文二三年(一五五四)七月四日の旦那売券写(米良文書)に「せんたい」の地名が記されている。開発の史料として宝永元年(一七〇四)新田畑申改検地帳・同六年本田畑地詰検地帳(徳川林政史蔵)が伝わる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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