朴市秦田来津(読み)えちはたのたくつ

朝日日本歴史人物事典 「朴市秦田来津」の解説

朴市秦田来津

没年:天智2.8(663)
生年:生年不詳
7世紀後半の武将。近江愛智郡出身の豪族。大化1(645)年9月古人皇子謀反に加わったが,事変後罰せられることはなく,中大兄皇子(のちの天智天皇)に登用されて,百済再興のために5000の兵を率いて,そのとき日本にきていた百済王子豊璋(余豊璋)の帰国に従って百済に渡った。まもなく王位に就いた豊璋は,都を州柔(錦江下流域)から避城(全羅北道金堤か)に遷すことを議した。田来津は要害の地州柔からの遷都に反対したが,いれられず遷都は実現した。はたして遷都後まもなく新羅に攻めこまれ,再び州柔が都となった。天智2(663)年8月,白村江における唐水軍との戦闘に参加したが奮戦むなしく大敗し,戦死をとげた。

(狩野久)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「朴市秦田来津」の解説

朴市秦田来津 えちのはたの-たくつ

?-663 飛鳥(あすか)時代武人
古人大兄(ふるひとのおおえの)皇子の謀反にくわわるがゆるされる。斉明天皇7年百済(くだら)(朝鮮)の王子豊璋(ほうしょう)にしたがい,百済再興のため兵5000をひきいて渡海。将軍鬼室福信(きしつ-ふくしん)との対立もあって新羅に攻めこまれる。天智天皇2年8月28日白村江(はくそんこう)の戦いで戦死した。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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