村山郷
むらやまごう
室町期から戦国期にかけてみえる郷で、武蔵七党の一つ村山党の名字の地。狭山丘陵一帯をさし、現在の東村山市・東大和市・武蔵村山市・瑞穂町一帯に比定される。なお田園簿にみえる村山村は当郷の遺称とみられ、同村はのち岸村、殿ヶ谷村・箱根ヶ崎村・石畑村(現瑞穂町)の四村に分れており、当郷はこれらの地域を中心としたものか。
村山郷
むらやまごう
村山西割・村山東割・村山北割を遺称地とする。永正一七年(一五二〇)八月二九日に遊行二四代不外が入国した際、村山の日向図書助がこれを迎え、九月一日若神子(現須玉町)の長泉寺で踊り念仏を興行している(遊行二十四祖御修行記)。天正一〇年(一五八二)九月七日の徳川家印判状写(寛永諸家系図伝)に「村山郷」とみえ、玄徳斎分であった郷内二〇〇貫文の地が、新知行として小尾監物(祐光)に与えられている。同月九日には同じく新知行として玄徳斎知行分の村山郷二〇〇貫文の地が津金修理亮胤久に宛行われている(「徳川家印判状写」譜牒余録)。
村山郷
むらやまごう
「和名抄」所載の郷。東急本・刊本の郡名の項に「牟良夜末」、「拾芥抄」に「ムラヤマ」の訓がある。郡名と一致することから、郡内で最も早く開発が進んだ地とみられ、郡衙所在地と考えられる。現東根市郡山を郡衙所在地とみることは諸説一致し、郡山遺跡では倉庫跡・礎石柱列などが発掘され、西隣の同市野田では蕨手刀が出土している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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