村山郡(読み)むらやまぐん

日本歴史地名大系 「村山郡」の解説

村山郡(近世)
むらやまぐん

郡域は古代の村山・最上二郡のうち、ほぼ最上郡の全域と村山郡の南半部を占め、現在の村山地区にあたる。山形県のうち南部の置賜おきたま郡を除いた内陸部は、律令制下では北半分が村山郡であり、南半分が最上郡であった。しかし近世初期に、事情は明らかでないが最上郡と村山郡の名称が逆転し、内陸部の南部が村山郡となり、北部は最上郡となった。この郡名の変更については混乱したとみえ、「今山形の四方十里程間を最上郷と称す、又最上郡と書たる物数多あり、村山郡と改称の後も土人呼なれたるを以最上郡とも最上郷とも唱来しにや、八九十年以前の書ものには、十の七村山郡と書たるは稀也、百十四年以前慶安の年山形の両所権現へ被下たる御朱印にも最上郡と有、又五年の御朱印にも最上郡とあり、貞享年中より始て村山郡山形両所権現を被下置けるとぞ」と、進藤重記は「出羽国風土略記」に述べている。正保郷帳では本田高三三万七千六一〇石四斗五升九合、うち田方二七万三千二石余・畠方五万一千六一六石余・寺社領一万二千九九一石余、ほかに新田高三千二七三石二斗二升九合、村数三八八。この頃に郡域は定まったと考えられるが、同郷帳では、近世最上郡域であった最上川以南の南山みなみやま村・赤松あかまつ(現最上郡大蔵村)古口ふるくち村・蔵岡くらおか村・角川つのがわ(現同郡戸沢村)堀内ほりうち(現同郡舟形町)の六ヵ村は当郡に属しており、また「寛文朱印留」にみえる諸寺社領の表記でも「村山郡清水村」「最上郡山形領小白川村」などの混同がみられる。領域確定後の当郡は、北は最上郡、西は田川郡、南は置賜郡、東は陸奥国と接した。天保郷帳では郡高三六万六千一四七石一斗三升五合九勺七才、村数四三〇。

山形城主最上義光は慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦に連動したいわゆる出羽合戦で徳川家康にくみし、同七年村山・最上両郡に庄内全域、および出羽由利ゆり郡の領有を認められ五七万石(表高、「徳川実紀」ほか)の領国を形成した。義光が慶長一九年死去すると、次男家親が継いだが、元和三年(一六一七)に急死、後を継いだ義俊は藩政を取りしきる能力がなく、家臣らの抗争のため同八年改易に処された。


村山郡
むらやまぐん

仁和二年(八八六)に、それまでの最上郡のうち北半が分れて成立した郡で、近世初期に最上・村山両郡の呼称が逆転するまでは、現在の山形県内陸部の北部、新庄市および最上郡全域、北村山郡大石田おおいしだ町・尾花沢おばなざわ市・村山市・東根市、西村山郡河北かほく町・西川にしかわ町・大江おおえ町、寒河江さがえ市を郡域としたと考えられる。本項では成立後、近世に呼称が逆転するまでの村山郡を対象とする。

〔古代〕

仁和二年一一月一一日の勅により最上郡を二分して成立した(三代実録)。「延喜式」民部省には「分最上郡置村山郡」の頭注がある。「和名抄」高山寺本では大山おおやま長岡ながおか・村山・大倉おおくら梁田やなだ徳有とくう六郷からなり、東急本(国郡部)には「牟良夜末」の訓がある。北の村山、南の最上の郡境は最上川の東はみだれ川、西は寒河江川流域辺りと考えられ、現在の大江町・寒河江市・河北町・東根市を結ぶ線にあたると思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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