生没年不詳。鎌倉時代の刀工。国行の子といわれ、京鍛冶(かじ)、来派の代表者。銘に「国俊」二字のものと、来を冠したものの二様があり、両者の同人説、別人説の二つがある。二字銘には弘安(こうあん)元年(1278)があり、三字銘には「来国俊 正応(しょうおう)二年(1289)十月廿三日 □□歳七十五」銘の太刀(たち)が現存して同人説の資料となっている。しかし、両者の作風が相違するため、相違を時代色とみる一方、江戸時代本阿弥(ほんあみ)家では折紙(おりかみ)に「二字国俊」「来国俊」と区別し、父子としている。作風も、二字銘が、丁子(ちょうじ)、互(ぐ)の目混じり、沸(にえ)づいて足の入った華やかなのに対し、三字銘は直刃(すぐは)調に小丁子、小足の混じった穏やかなものとなる。また二字銘は太刀がほとんどで短刀は一振りだけであるが、三字銘には太刀、短刀ともに多くみられる。なお、「来源国俊」「源来国俊」と銘したものもあり、氏が源であったことがうかがわれる。
[小笠原信夫]
…一方,同じころ四条大路には定利,定吉ら綾小路派がおり,中期から南北朝時代にかけては国行を祖とする来(らい)派が栄えた。来派は一説に先祖が高麗からの帰化人といい,銘に来国俊,来国光,来国次,来倫国,来国長など〈来〉の字を冠するものが多い。山城物の中で最も繁栄したのがこの来派で,他国への影響力も大きく,来国長は摂津中島へ移り,来国俊の門人国村は肥後の地に延寿派を開き,また来国俊の子了戒の末葉は筑紫の地に移住し,それぞれ地方鍛冶の祖となっている。…
※「来国俊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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