鎌倉中期に京でおこった刀工の一派。『観智院本銘尽(かんちいんぼんめいづくし)』では国吉(くによし)を祖としているが、注記に「非鍛冶(かじ)」とあり、実際は康元(こうげん)(1256~57)ごろの子の国行に始まる。「来」は高麗(こうらい)からの渡来を意味し、「来国」と呼称するとも記されている。来派系図は刀剣書によりさまざまで、国行の子に国俊(くにとし)、国行、国末、弘村(ひろむら)を記したもの、それに来国俊を加えたものなどがある。国行には来を冠したものはないが、国俊には来を冠したものもあり、両者が同一人か否かいまださだかではない。
国末は鎌倉の比企(ひき)氏に招かれて作刀したところから「比企来」の呼称があり、弘村の子国村は肥後(熊本)へ移住して延寿派の祖となっている。来国俊の子および一派に来国光(くにみつ)、来国次(くにつぐ)、了戒、来国長、来国安、来国真(くにざね)などがいる。来国次は一説に相州正宗(まさむね)の弟子という。国長は摂津(せっつ)中島への移住から「中島来」、国安は越前(えちぜん)へ移住して「千代鶴」、光包(みつかね)は比叡山(ひえいざん)根本中堂での作刀で「中堂来」と、それぞれ呼称される。了戒は一門というより別系とみるべきである。来派の作風は、時代とともに身幅が広く猪首(いくび)切っ先となり、来肌(らいはだ)または来鉄(がね)と称して美しい地鉄の中に特有の変わり鉄が出ることが多い。しかし、南北朝時代後半には来派もほとんど消滅している。
[小笠原信夫]
…さらに建長(1249‐56)ころの国綱は北条時頼の招きにより鎌倉で作刀し,相州鍛冶(相州物)の基を築いたと伝え,末期の吉光は短刀の名手として名高い。一方,同じころ四条大路には定利,定吉ら綾小路派がおり,中期から南北朝時代にかけては国行を祖とする来(らい)派が栄えた。来派は一説に先祖が高麗からの帰化人といい,銘に来国俊,来国光,来国次,来倫国,来国長など〈来〉の字を冠するものが多い。…
※「来派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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