日本歴史地名大系 「東山新田」の解説 東山新田ひがしやましんでん 静岡県:御殿場市東山新田[現在地名]御殿場市東山深沢(ふかさわ)村の南東に位置し、西は新橋(にいはし)村、南西は東田中(ひがしたなか)村。新田内のやや北寄りを東西に仙石原(せんごくはら)往還が通り、箱根(はこね)外輪山の丸(まる)岳から流出する地蔵(じぞう)川が北東に流れる。江戸八丁堀(はつちようぼり)(現東京都中央区)小川屋平兵衛・吉田屋又左衛門、同本材木(ほんざいもく)町(現同上)和泉屋仁左衛門、新材木町(現同上)大坂屋庄兵衛、小舟(こぶな)町(現同上)大坂屋長右衛門の五名が共同出資して開発した新田で、寛文八年(一六六八)小田原藩に提出した請負手形(東山区有文書)によれば、開発地は東田中村と深沢村と鮎沢(あゆざわ)村(新橋村のうち)の三ヵ村にまたがる野原で、開発後は田の一〇分の一を出資者が所持すること、他の田地は六年目から、畑地は四年目から年貢を納入することなどを約している。開発の中心人物大坂屋長右衛門(他の四名は問屋仲間)はもと豊臣方の武将で中村正俊といい、大坂夏の陣で敗れて江戸に下り、やがて商人として身を立てたと伝えられ、開発時には小田原藩の御用商人であったと思われる。 東山新田ひがしやましんでん 大阪府:堺市東山新田[現在地名]堺市東山深井(ふかい)村の南東に位置し、畑山(はたやま)新田に続く泉北丘陵上の新田。大鳥郡に属する。中世には東山の山林は和田氏嫡子に譲られていた(永仁二年一一月七日「和田性蓮処分状」和田文書)。寛文八年(一六六八)堺奉行水野元重による新田開発の募集によって、大坂の梅川七左衛門(升屋)と、親戚の堺の大和屋長右衛門とが請負い開発した。同一一年に検地を受け、田畑面積六六町四反九畝余で、年貢定米として一七六石余が定められた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by