日本歴史地名大系 「東平賀村」の解説 東平賀村ひがしひらがむら 千葉県:松戸市東平賀村[現在地名]松戸市東平賀・小金(こがね)きよしヶ丘(おか)一―五丁目殿平賀(とのひらが)村の東、下総台地の西端部に位置し、水戸道が村の南を通る。「本土寺過去帳」二〇日の妙行には応永二六年(一四一九)九月の年紀がみえ、「東平賀」とある。また同過去帳では「平賀 東」や二四日の妙海(応永一七年九月)にみえる「東」、あるいは単に「ヒカシ」とある地名も当地をさしていると思われる。慶安年間(一六四八―五二)頃の成立といわれる高城胤忠旧知行高付帳には「東平ケ村高弐百石」とある。寛文三年(一六六三)旗本伊吹氏に村内で高六五石が与えられ(「諸家系譜」内閣文庫)、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二〇九石余、幕府領と旗本大久保・伊吹領の三給。 東平賀村ひがしひらかむら 三重県:桑名郡多度町東平賀村[現在地名]多度町平古(ひらこ)揖斐(いび)川西岸、七郷(ななごう)輪中の最北端で、西平賀村の北側にある。美濃国との境界は、元禄一三年(一七〇〇)国図改正の際、美濃七右衛門新田(現岐阜県海津町)の堤根を東平賀村との境に決めた(桑名郡志)。明治一六年(一八八三)以降は揖斐川中央を県界にした。近世初期は桑名藩領、宝永七年(一七一〇)以降幕府領。明治一六年の戸数四四、人数二三四(桑名郡志)。この地は低湿地でしばしば水害に悩まされたが、明治三三年揖斐川改修工事が行われ、多くの宅地が堤防外になったため、他郷に移転した農家もあった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by