日本大百科全書(ニッポニカ) 「東条一堂」の意味・わかりやすい解説 東条一堂とうじょういちどう(1778―1857) 江戸後期の儒学者。安永(あんえい)7年上総(かずさ)国(千葉県)に生まれる。名は弘、字(あざな)は子毅(しき)、通称文蔵、一堂と号す。16歳で京都に行き、折衷派の皆川淇園(みながわきえん)に師事、数年にして江戸に帰り、同じく折衷派の亀田鵬斎(かめだほうさい)に学ぶ。程朱(ていしゅ)学の仏老に混ずるを慨し、『四書知言』や『五辨(ごべん)』(道徳、天文、生命、有無、虚静)を著し、古典の正確な考証を求めた。そのほか『老子標識』『繋辞答問(けいじとうもん)』など著書は多い。安政(あんせい)4年没。[渡部正一 2016年6月20日][参照項目] | 亀田鵬斎 | 皆川淇園 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「東条一堂」の解説 東条一堂 没年:安政4.7.13(1857.9.1) 生年:安永7.11.7(1778.12.25) 江戸後期の儒者。名は弘,字は子毅,通称文蔵。本姓源。上総国埴生郡八幡原村(千葉県茂原市)の富農,江戸で医を開業した自得の次男。母は片岡氏。墓碑によれば16歳(1793)で志を立て,京都の儒者皆川淇園門下に10年を過ごした。その後江戸に帰り亀田鵬斎,朝川善庵,羽倉簡堂などと交わった。文化の初めに弘前藩に督学として迎えられたが,建議が受け入れられないのを不服として江戸に帰り,昌平坂学問所のそば,のち,お玉が池に私塾を開いた。古注学に精しく,朱子学を強く排斥した。町の儒者でありながら多くの権家に信頼され,閣老阿部正弘の諮問を受けるほど実学の名声は高かった。著書は『学範』『論語知言』『五弁』など多種。<著作>『東条一堂著作集』全7巻<参考文献>鴇田恵吉『東条一堂伝』,東条会館編『儒者東条一堂小伝』 (ロバート・キャンベル) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「東条一堂」の解説 東条一堂 とうじょう-いちどう 1778-1857 江戸時代後期の儒者。安永7年11月7日生まれ。京都で皆川淇園(きえん)に師事。陸奥(むつ)弘前(ひろさき)藩儒をへて江戸で塾をひらき,古注学をおしえる。海防論にも通じ,老中阿部正弘(まさひろ)の相談役となった。安政4年7月13日死去。80歳。上総(かずさ)(千葉県)出身。本姓は逸見。名は弘。字(あざな)は子毅。通称は文蔵。著作に「学範」など。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
367日誕生日大事典 「東条一堂」の解説 東条一堂 (とうじょういちどう) 生年月日:1778年11月7日江戸時代後期の儒学者1857年没 出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報 Sponserd by