東高橋村(読み)ひがしたかはしむら

日本歴史地名大系 「東高橋村」の解説

東高橋村
ひがしたかはしむら

[現在地名]芳賀町東高橋

与能よのう村・下延生しものぶ村の南に位置する。村南部で五行ごぎよう川と野元のもと川が合流し、下流は京泉きようせん村・飯貝いいがい(現真岡市)。西は西高橋村で、中世は大内おおうち庄を構成する高橋郷または東高橋郷としてみえる。永徳三年(一三八三)一月二八日の関東公方足利氏満寄進(鹿島神宮文書)に「大内庄内高橋三郎跡半分事」とあり、足利氏満は小山義政の乱にからむ闕所地処分として同地を鹿島社(現茨城県鹿島郡鹿島町)に寄進している。この高橋三郎跡の中に高橋郷が含まれていたことは、同年四月一九日の宍戸基宗打渡状(塙文書)に「鹿嶋御神領下野国大内庄内高橋三郎跡高橋郷、同庄内田井郷并葛嶋村、下総国豊田庄内他家・久安村等半分事」とあることから明らかである。


東高橋村
ひがしたかはしむら

[現在地名]石和町東高橋

唐柏からかしわ村の西に位置し、笛吹川と鵜飼うかい川に挟まれた氾濫原に立地する。北の笛吹川対岸は山梨郡西高橋村(現甲府市)であるが、笛吹川の流路が変わる前は東高橋村と西高橋村は一村であった(甲斐国志)。甲府から八代方面に抜けていく若彦わかひこ路が通る。当村と笛吹川対岸の山梨郡七沢ななさわ(現甲府市)との間に七沢渡船場があり、冬から春の渇水期には仮橋が架けられた(同書)。また鰍沢かじかざわ河岸(現鰍沢町)から上ってくる船のための河岸があり、船宿・船問屋があった(富士見村誌)。永禄四年(一五六一)の番帳にみえる「たかはしの禰き」は当地の神明神社神主のこととされ、府中八幡宮の勤番を命じられている。


東高橋村
ひがしたかはしむら

[現在地名]大垣市旭町あさひまち花園町はなぞのちよう恵比寿町えびすちよう恵比寿町南えびすちようみなみ恵比寿町北えびすちようきた羽衣町はごろもちよう二葉町ふたばちよう大池町おおいけちよう鹿島町かしまちよう安井町やすいちよう

新規しんき川流域の平坦地、大垣輪中の中部に位置し、西は西高橋村。俗に東沖ともいわれ、文政五年(一八二二)西高橋村(西沖)と合併して高橋村となるが(座右秘鑑)、その後分村している。江戸時代を通じて大垣藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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