松井直吉
まついなおきち
(1857―1911)
明治時代の化学者。岐阜の大垣に生まれる。大垣藩の貢進生として大学南校に入学、同校が改称された東京開成学校でアトキンソンに学び、1875年(明治8)文部省の第1回海外派遣留学生として化学の学習のためアメリカに留学した。ニューヨークのコロンビア大学鉱山学科に入学、1880年卒業して帰国、東京大学理学部講師を経て、1881~1886年同学部教授となり化学を担当、1886年には東京大学工科大学教授となり応用化学を担当、1890年、帝国大学農科大学の設置に伴い教授となって化学を担当、また農科大学学長も務めた。東京化学会会長、文部省専門学務局長も務め、日本草創期の化学教育ならびに教育行政にあたった。
[道家達將]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
松井直吉
没年:明治44.2.1(1911)
生年:安政4.6.25(1857.8.14)
明治時代の化学者。大垣藩士和田政央の次男として大垣で生まれ,松井喜太郎の養子となった。大学南校を卒業後,明治8(1875)年文部省第1回海外留学生として渡米,コロンビア大鉱山学科に学んだ。帰国後,14年東大教授となり理学部で化学を教えた。23年以来長く帝大農科大(東大農学部)学長を務め,その間東大総長,文部省専門学務局長なども兼ね,文部行政に尽くした。東京化学会会長に前後5回選ばれ,「有田陶土の実験記」「原子説の沿革」「電気分解」「樟脳 の構造」などの化学の報告がある。外人教師の手を離れた明治初期の日本の化学の先導者。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
松井直吉 まつい-なおきち
1857-1911 明治時代の化学者。
安政4年6月25日生まれ。大学南校でアトキンソンにまなび,明治8年文部省の第1回留学生としてコロンビア大に留学。帝国大学工科大学教授,同農科大学教授兼学長などを歴任し,38年東京帝大総長となる。明治44年2月1日死去。55歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。旧姓は和田。
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松井 直吉 (まつい なおきち)
生年月日:1857年6月25日
明治時代の化学者;教育行政家。東京帝国大学教授
1911年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の松井直吉の言及
【化学】より
…アトキンソンRobert William Atkinson(1850‐1929),E.ダイバース(ともにイギリス人),ケルナーWilhelm Körner(1839‐1929),ロイプOscar Loew(1844‐1941)(ともにドイツ人)らが理学部,工学部,農学部等にいて,よく学生を育てた。一方,初期の留学生のなかから,日本の化学の中心となった松井直吉(1857‐1911),桜井錠二,長井長義(1845‐1929),柴田承桂(1850‐1910)らが出た。1878年今日の日本化学会の前身である化学会が,81年には日本薬学会,98年には工業化学会が設立され,この間,1886年には帝国大学令が施行されるなど,教育研究の体制は徐々に整備されていった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」