改訂新版 世界大百科事典 「大垣藩」の意味・わかりやすい解説
大垣藩 (おおがきはん)
美濃国大垣に藩庁を置いた譜代中藩。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に際して大垣城をめぐる攻防は戦局に大きな影響を与え,大坂方は,岐阜城落城後一時大垣城を中心にして徳川方勢と一戦交える作戦をたてたとされる。その大垣城が関ヶ原の戦で徳川方に帰属し,翌年上総国鳴渡から石川康通が入部して5万石を領するに及んで大垣藩は成立した。その後領主の交替はめまぐるしく,大坂夏の陣の翌年の16年(元和2)石川氏は豊後国日田へかわって下総国関宿から松平忠良が入部。24年(寛永1)信濃国小諸へ移封された松平氏のあとを,丹波国福知山から岡部長盛が,岡部氏は33年に播磨国竜野へ移されて,山城国淀から松平定綱が入部して6万石をはんだ。35年に松平氏は伊勢国桑名にかわり,摂津国尼崎から移された戸田氏は10万石を領した。以後廃藩置県まで領主,石高ともにかわらなかった。大垣藩体制はこの戸田氏の治政下,とくに氏鉄(うじかね),氏信,氏西の3代に整備され,確立したとされる。氏鉄は37年の島原の乱に際しては老中松平信綱とともに出動。また新田開発や水門築造,家臣団の俸禄制,七分五厘夫役代米制など治水・開発・家臣団統制・年貢政策などに意を用いた。2代氏信治政下の56年(明暦2)には,大垣藩法の集大成である〈定帳〉の原型ができあがり,つぎの氏西治政下で,かなりの数の家臣団整理〈延宝の大暇〉が断行された。4代氏定のとき,88年(元禄1)には大垣新田藩(氏定の弟氏成)が成立。幕末には小原鉄心による嘉永の改革や安政・慶応期に軍制改革が行われ,幕府の命で京都警衛や長州戦争などに参加し,戊辰戦争では新政府側で出兵。
また教育・文化面では,1838年(天保9)藩校敬教堂(致道館)が創設されたほか,西洋医学をはじめて美濃にもたらした江馬蘭斎や化学・植物学者宇田川榕菴などはいずれも大垣藩医である。
執筆者:松田 之利
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報