松岡青蘿(読み)まつおかせいら

精選版 日本国語大辞典 「松岡青蘿」の意味・読み・例文・類語

まつおか‐せいら【松岡青蘿】

  1. 江戸中期の俳人。松岡氏。播磨国兵庫県姫路の人。もと姫路藩士。俳諧は年少の頃より美濃派玄武坊に学ぶ。蕪村暁台とも交流があった。寛政二年(一七九〇)二条宮の御会で中興宗匠を授けられた。編著「蛸壺塚集」「骨書」など。句集に「青蘿発句集」がある。元文五~寛政三年(一七四〇‐九一

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朝日日本歴史人物事典 「松岡青蘿」の解説

松岡青蘿

没年:寛政3.6.17(1791.7.17)
生年:元文5(1740)
江戸後期の俳人。通称,鍋五郎。別号に山李坊令茶,三眺庵,幽松庵,栗之本など。姫路の人。江戸詰姫路藩士門太夫の3男。武沢氏の養子となり,姫路藩の江戸詰武士となる。宝暦12(1762)年,身持不慎の故をもって藩を追われ,生家に復す。致仕後,俳諧師として播州地方を中心に活動を展開。俳諧は若くから修しており,美濃派の玄武坊に師事加賀高桑闌更を訪ねたりして,29歳で剃髪。以後,諸国を行脚し,中興期の有名俳人とも親交を結んだ。作品的にも中興六家に挙げるにふさわしい質を持つ。<参考文献>大谷篤蔵「松岡青蘿」(明治書院『俳句講座』3巻)

(楠元六男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松岡青蘿」の解説

松岡青蘿 まつおか-せいら

1740-1791 江戸時代中期-後期の俳人。
元文5年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩の江戸詰勘定人だったが,不身持を理由に藩をおわれる。明和4年加古川に庵をむすび,俳諧師となる。寛政2年二条家から俳諧宗匠をゆるされる。中興六家のひとり。寛政3年6月17日死去。52歳。通称は鍋五郎。別号に山李坊,令茶,栗之本など。著作に「青蘿発句集」など。
【格言など】灯火(ともしび)のすわりて氷る霜夜かな(「青蘿発句集」)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松岡青蘿」の意味・わかりやすい解説

松岡青蘿
まつおかせいら

青蘿

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の松岡青蘿の言及

【青蘿】より

…江戸中期の俳人。姓は松岡,通称は鍋五郎。別号は幽松庵,栗庵,栗の本,三眺庵,香松庵,山李坊,令茶など。播磨国姫路の人。江戸詰の姫路藩士松岡門太夫の三男として江戸に生まれた。同藩の武沢喜太夫の養子になり,6歳で養父を失い,一時はその名跡をついだが,やがて本姓にもどった。1755年(宝暦5)御勘定人となって江戸藩邸に勤めたが,身持が不良のため,59年姫路に移され,62年禄を離れて姫路を追われた。俳諧は12歳で玄武坊に学び,蝶夢にも影響されたが,姫路を離れて諸国をめぐるようになってからは,いよいよ俳諧に打ちこんだ。…

※「松岡青蘿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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