江戸中期の俳人。姓は加藤あるいは久村(くむら)。幼名仲八。通称平兵衛。本名周挙(かねたか)。別号暮雨巷(ぼうこう)、買夜(ばいや)、後一(ごいち)、竜門(りゅうもん)。名古屋に生まれ、尾張(おわり)徳川家に仕えたが、江戸在勤中の27歳の春、辞職して俳諧(はいかい)に専念するようになる。俳諧は初め巴雀(はじゃく)に学んで他朗と号し、巴雀の没後はその子白尼(はくに)について買夜と号した。『蛙啼集(あていしゅう)』(1763)で初めて暁台と名のり、以後名古屋で暮雨巷と称する一派を形成し、1772年(安永1)には連句集『秋の日』を刊行して芭蕉(ばしょう)の風を復興する意図を明らかにして、いわゆる中興俳諧の先駆者となった。74年から数年間しばしば京都へ上って蕪村(ぶそん)と交わり、また芭蕉百回忌取越追善(とりこしついぜん)の正式俳諧を主催したり、二条家に召されて俳諧宗匠の免状を受けたりして名声を高めた。寛政(かんせい)4年1月20日、「梅林に夜のほこりや薄曇り」の句を残し、京都で没した。高雅優美で多様な作風を示し、蕪村と並んで中興俳諧の代表的俳人とされている。また『去来抄』『熱田三歌仙』の翻刻などによって、芭蕉俳諧の研究、普及にも功績があった。
[山下一海]
九月尽(くぐわつじん)はるかに能登の岬(みさき)かな
『山下一海著『中興期俳諧の研究』(1965・桜楓社)』▽『伊藤東吉著『暁台の研究』(1976・藤園堂書店)』
江戸中期の俳人。姓は加藤,幼名は仲八,通称は平兵衛,本名は周挙,初号は他朗,別号は買夜,暮雨巷(ぼうこう)。名古屋の人。尾張徳川家に仕えたが28歳のとき辞職した。俳諧は20歳のころ巴雀の門に入り,巴雀没後はその子白尼について学んだ。《蛙啼(あてい)集》(1763)ではじめて暁台を名のり,名古屋を中心に〈暮雨巷〉と称する一派を形成した。1774年(安永3)から数年間,しばしば京都に上って蕪村と交わり,そのころの句はとくにすぐれたものが多い。83年(天明3)に芭蕉百回忌取越追善の正式俳諧を主催して《風羅念仏》を編纂し,90年(寛政2)には京都の二条家に召されて俳諧宗匠の免状を受けた。91年10月若狭を巡り,その月の下旬,京都に着き,11月に発病,翌年1月20日没した。俳壇に広く知られ,蕉風復興を目ざす天明俳諧(中興俳諧)の一中心を成した。《去来抄》や《熱田三歌仙》《桃青門弟独吟二十歌仙》を翻刻出版している。作風は繊細で優美。編著は《送別しをり萩》《秋の日》など。〈しら芥子に焚火移ふや嵯峨の町〉(《暁台句集》)。
執筆者:山下 一海
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…西山宗因は里村家の推挙で大坂の天満宮連歌所宗匠となった。俳諧では,花の本宗匠の号を貞徳,貞室が免許されたという伝えがあるが,確実には,1790年(寛政2)暁台(きようたい)が二条家から免許され,闌更(らんこう),蒼虬(そうきゆう),鳳朗(ほうろう),梅室らへと継承されたものが知られている。しかし,俳諧での宗匠の称は,第一人者の意ではなく,通常は連句興行の場で〈一座の長にして文台をさばく人〉(《誹諧名目抄》)の意であった。…
※「暁台」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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