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俳諧(はいかい)流派。蕉門(しょうもん)俳人支考(しこう)が開いた俳諧の一派で、獅子(しし)門ともいう。芭蕉(ばしょう)晩年の門人であった支考は、郷里美濃を本拠とし、北は三越(越前(えちぜん)・越中(えっちゅう)・越後(えちご))地方から南は九州方面まで、広範囲にわたって自派の勢力を拡張し、乙由(おつゆう)の伊勢(いせ)派とともに地方俳壇を支配した。支考没後も、その道統は、廬元坊里紅(ろげんぼうりこう)、五竹坊琴左(ごちくぼうきんさ)に受け継がれ、その後1780年(安永9)に再和(さいわ)派、以哉(いさい)派の両派に分裂したが、両派とも芭蕉を1世、支考を2世と数えて、1958年(昭和33)の合流を経て、今日まで続いている。美濃派の俳風は、芭蕉晩年の「軽み」の風をさらに平俗にしたもので、軽い教訓性をも含んでいて、一般民衆に大いに迎えられるところであったが、後年、乙由の麦林(ばくりん)風(伊勢派)とあわせて支麦の徒、田舎(いなか)蕉門などとそしられるようにもなった。
[堀切 實]
『各務虎雄著『支考と美濃派の伝統』(『東海の俳諧史』所収・1969・泰文堂)』
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…美濃山県郡北野(現,岐阜市)に生まれ,幼時仏門(禅宗)に入るがのち還俗,1690年(元禄3)近江で芭蕉に入門した。俳論書《葛の松原》を上梓し,《続猿蓑》の編集に協力したが,芭蕉没後は追善の事業や,九州,中国をはじめ数次の北陸への行脚等を通して,俳壇形成や俳諧の理論的普及につとめ,美濃派の俳諧の確立に力を尽くした。1711年(正徳1)にはみずから終焉記を作って世間の評価をうかがい,その後は門人蓮二房,白狂等の名で著述し,自己の業績を称揚したりした。…
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