松平定政 (まつだいらさだまさ)
生没年:1610-72(慶長15-寛文12)
江戸前期の大名。三河国刈屋藩主。松平定勝の六男。将軍徳川家光の小姓となり,小姓組頭を経て1635年(寛永12)伊勢長島城主,翌年近習となり,49年(慶安2)刈屋城主となって2万石を領する。51年家光の死の直後剃髪し,幕閣の非難と旗本層の救済を訴えた意見書を老中に提出し,領地の返上を求めた。ために狂人とされて所領没収となり,兄の伊予松山藩主松平定行に預けられた。この一件は,この直後に発覚する慶安事件の一因でもあった。
執筆者:藤井 譲治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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松平定政 まつだいら-さだまさ
1610-1673* 江戸時代前期の大名。
慶長15年生まれ。松平(久松)定勝(さだかつ)の6男。徳川家光につかえ,伊勢(いせ)(三重県)長島に7000石を領す。慶安2年三河(愛知県)刈谷藩主。2万石。4年家光の死後,所領の還付と幕閣を非難する書状を老中にさしだし,狂気を理由に所領を没収され,兄の伊予(いよ)松山藩主松平定行(さだゆき)にあずけられた。寛文12年11月24日死去。63歳。初名は定次。通称は吉五郎。号は不白。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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