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松平定政 まつだいら さだまさ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

松平定政 まつだいら-さだまさ

1610-1673* 江戸時代前期の大名。
慶長15年生まれ。松平(久松)定勝(さだかつ)の6男。徳川家光につかえ,伊勢(いせ)(三重県)長島に7000石を領す。慶安2年三河(愛知県)刈谷藩主。2万石。4年家光の死後,所領の還付と幕閣を非難する書状を老中にさしだし,狂気を理由に所領を没収され,兄の伊予(いよ)松山藩主松平定行(さだゆき)にあずけられた。寛文12年11月24日死去。63歳。初名は定次。通称は吉五郎。号は不白。

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朝日日本歴史人物事典の解説

松平定政

没年:寛文12.11.24(1673.1.11)
生年:慶長15(1610)
江戸前期の三河刈谷藩主。能登守。不白と号す。徳川家康の異父弟松平定勝の6男として山城伏見に誕生。寛永10(1633)年将軍家光の小性となり,翌年5000石を知行し小性組組頭。同12年伊勢長島を領し,7000石,同13年近習に進む。慶安2(1649)年刈谷2万石。同4年4月家光が死去すると,7月突如剃髪し,所領を返上して幕閣を非難した上書を提出し,江戸市中を托鉢。幕府はこれを狂気の仕業とし,兄の伊予松山藩主松平定行に預けた。家光死去直後の幕政の危機の象徴であり,この直後に由井正雪の乱が発覚している。定政は松山に蟄居し,その地で死去。<参考文献>進士慶幹『由井正雪

(根岸茂夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

まつだいらさだまさ【松平定政】

1610‐72(慶長15‐寛文12)
江戸前期の大名。三河国刈屋藩主。松平定勝の六男。将軍徳川家光の小姓となり,小姓組頭を経て1635年(寛永12)伊勢長島城主,翌年近習となり,49年(慶安2)刈屋城主となって2万石を領する。51年家光の死の直後剃髪し,幕閣の非難と旗本層の救済を訴えた意見書を老中に提出し,領地の返上を求めた。ために狂人とされて所領没収となり,兄の伊予松山藩主松平定行に預けられた。この一件は,この直後に発覚する慶安事件の一因でもあった。

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