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慶安事件 けいあんじけん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

慶安事件
けいあんじけん

由井正雪丸橋忠弥を首領とする牢人 (浪人) らが,慶安4 (1651) 年,江戸幕府を転覆しようとした陰謀事件。3代将軍徳川家光のときまでは,いわゆる武断政治が行われた結果,各大名の取りつぶしによって牢人が続出。

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百科事典マイペディアの解説

慶安事件【けいあんじけん】

慶安4年(1651年)に発覚した由比正雪丸橋忠弥らの浪人による幕政批判の騒擾(そうじょう)事件。幕府による多数の大名の改易・減封が続いて多くの浪人が生じ,一方元和偃武(えんぶ)以降,家臣召抱えが控えられるようになった。
→関連項目承応事件徳川家綱松平信綱浪人

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世界大百科事典 第2版の解説

けいあんじけん【慶安事件】

1651年(慶安4)7月に発覚した浪人らによる幕政批判の騒擾(そうじよう)事件。首謀者は由井正雪丸橋忠弥金井半兵衛,熊谷市郎兵衛ら。慶安の変由井正雪の乱ともいう。関ヶ原の戦以後,江戸幕府は多くの大名を改易あるいは減封したため,多数の浪人が発生した。一方,元和偃武(げんなえんぶ)以降,ことに寛永期(1624‐44)を迎えると諸大名家での家臣召抱えが控えられるようになり,職を求める浪人がちまたにあふれ,浪人問題は大きな社会問題となってきていた。

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大辞林 第三版の解説

けいあんじけん【慶安事件】

1651年(慶安4)に発覚した由井正雪・丸橋忠弥らによる反乱計画。時勢に不満をもつ浪人を糾合して、江戸・大坂・京都などでの蜂起を企てたが未然に発覚、正雪は自刃し、一味は処断された。慶安の乱。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

慶安事件
けいあんじけん

1651年(慶安4)7月、軍学者由比正雪(ゆいしょうせつ)が企てた反乱が未然に鎮圧された事件。慶安の変、由比正雪の乱ともいう。幕府の記録が伝わっていないため全貌(ぜんぼう)は謎(なぞ)に包まれているが、計画の骨子は、(1)首魁(しゅかい)の正雪は駿河(するが)久能山(くのうざん)の金蔵を襲ったのちに駿府(すんぷ)城を奪取する(2)一味の丸橋忠弥(まるばしちゅうや)は江戸・小石川塩硝蔵(えんしょうぐら)など江戸各所に放火、また上水道に毒を投入し、市中の混乱に乗じて紀州徳川家と偽って江戸城に潜入し、これを奪取する(3)京都、大坂でも一味の者が放火などで騒動を起こす、というものであったと伝えられる。正雪は7月22日に江戸をたって駿府に向かったが、その翌日には計画は露顕し、忠弥は江戸で召し捕られ、正雪の一行は駿府町奉行(まちぶぎょう)の捕り手に宿を包囲されて自害した。そのほかの一味も全国に張られた幕府の網に捕縛され、あるいは自害し、8月10日、一味とその親族35人の処刑で一件は落着した。
 正雪が計画に引き入れた浪人は2000人と伝えられるが、この程度の人数で城を乗っ取るのは現実性に欠けており、そこに紀州家徳川頼宣(よりのぶ)と正雪との関係が後世に云々(うんぬん)される素地があった。家康の子である頼宣は、この年の4月に11歳で将軍となった家綱に次いで将軍となる資格があり、また反幕的言動でとかくの風評があったからである。次に反乱の目的については、正雪の遺書の写しが捕縛関係者によってつくられ、流布(るふ)している。それによれば正雪は、同じ7月に幕閣を糾弾して処罰された先の三河刈谷(かりや)城主松平定政(さだまさ)の志を継ぎ、「天下之制法無道にして上下困窮」という事態を打開する意図があったと述べている。これと参加者の多くが浪人であったことから、正雪の目的が、当時30万~40万と推計されている武士の浪人問題の解決にあったという見方が、現在の通説となっている。しかし、この推計は過大であり、支持しがたい。ただ確かなのは、この計画が放火、水道への毒投入など優れて都市型である点である。幕初から江戸には若党(わかとう)・中間(ちゅうげん)など武家の渡り奉公をする人口が集中し、彼らに特有の傾(かぶ)き者(もの)の都市問題が発生していた。なかんずく慶安のころは、旗本の困窮と江戸城など大型普請(ふしん)の途絶によって雇用の機会を奪われた江戸下層人口の不満は、一触即発の状態にあったと思われる。これらの雇用主のない渡り者も、当時の用語では浪人であったのであり、この浪人の問題が狭い意味での「歴々の武士の浪人」問題と受け取られたのが、後世の正雪伝承と考えられる。[高木昭作]

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世界大百科事典内の慶安事件の言及

【丸橋忠弥】より

…江戸前期の浪人。慶安事件の参加者の一人。俗書では出羽の人とするが,下級幕臣の子であったと思われる。…

【山鹿素行】より

…この願望は終生続いたが達せられなかった。1652年(承応1)から60年(万治3)まで赤穂浅野家に仕えたのは,慶安事件などで浪人の取締りがきびしくなったからであろう。素行の兵学は近世のそれが軍法(戦技,戦術)から士法(武士のあり方)へと重点を移してきたのにそって,儒学を基礎として〈士〉としてのあり方を中心に説かれ,みずから武教と称した。…

【由比正雪(由井正雪)】より

…江戸前期の浪人軍学者。慶安事件の首謀者。駿河由比の紺屋の子として生まれたとも,駿河宮ヶ崎の生れともいわれる。…

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