松本俊一(読み)マツモト シュンイチ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「松本俊一」の解説

松本 俊一
マツモト シュンイチ


専攻分野
外交問題

肩書
元・衆院議員(自民党),元・外務事務次官,松本建設社長

生年月日
明治30年6月7日

出生地
台湾・台北

出身地
広島県呉市広町長浜

学歴
東京帝国大学法学部〔大正10年〕卒業

経歴
大正10年外務省に入り、昭和17年事務次官、19年駐仏印大使として赴任。20年東郷外相の政務次官、21年公職追放を受け、家業の松本建設社長に就任。27年追放解除により外務省顧問となる。27年から29年まで駐英大使を務める。30年衆院議員に当選鳩山内閣の日ソ交渉開始とともに全権をつとめた。初め日本民主党に属し、のち自由民主党に属す。第2次岸内閣では内閣官房副長官、北方領土復帰期成同盟会長を歴任した。著書に日ソ交渉を記した「モスクワにかける虹」がある。

受賞
勲一等瑞宝章〔昭和42年〕

没年月日
昭和62年1月25日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「松本俊一」の解説

松本 俊一
マツモト シュンイチ

大正・昭和期の外交評論家 松本建設社長;元・外務事務次官;元・衆院議員(自民党)。



生年
明治30(1897)年6月7日

没年
昭和62(1987)年1月25日

出生地
台湾・台北

出身地
広島県呉市広町長浜

学歴〔年〕
東京帝国大学法学部〔大正10年〕卒業

主な受賞名〔年〕
勲一等瑞宝章〔昭和42年〕

経歴
大正10年外務省に入り、昭和17年事務次官、19年駐仏印大使として赴任。20年東郷外相の政務次官、21年公職追放を受け、家業の松本建設社長に就任。27年追放解除により外務省顧問となる。27年から29年まで駐英大使を務める。30年衆院議員に当選、鳩山内閣の日ソ交渉開始とともに全権を務めた。初め日本民主党に属し、のち自由民主党に属す。第2次岸内閣では内閣官房副長官、北方領土復帰期成同盟会長を歴任した。著書に日ソ交渉を記した「モスクワにかける虹」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松本俊一」の意味・わかりやすい解説

松本俊一
まつもとしゅんいち

[生]1897.6.7. 広島
[没]1987.1.25. 東京
外交官。東京大学を卒業し,外務省に入る。 1942年外務次官,44年駐仏印大使,45年次官に再任,第2次世界大戦の終戦処理にあたる。公職追放解除後,52年イギリス駐在大使。 55年衆議院議員に当選。鳩山内閣の日ソ復交交渉にあたり,56年共同宣言方式による復交を実現した。その後,松村謙三らを助け,日中友好運動に努力した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松本俊一」の解説

松本俊一 まつもと-しゅんいち

1897-1987 大正-昭和時代の外交官,政治家
明治30年6月7日生まれ。外務省条約局長などをへて,昭和17年外務次官。駐仏領インドシナ大使から,20年外務次官に再任され終戦処理にあたった。のち駐英大使。30年衆議院議員(当選3回,自民党)。鳩山内閣の日ソ交渉全権委員として国交回復尽力。昭和62年1月25日死去。89歳。広島県出身。東京帝大卒。

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367日誕生日大事典 「松本俊一」の解説

松本 俊一 (まつもと しゅんいち)

生年月日:1897年6月7日
大正時代;昭和時代の外交官;政治家。松本建設社長;外務事務次官;衆院議員
1987年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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