台湾の中心都市。台湾の北部、台北盆地の中央、淡水(たんすい)河の東側に位置する。人口264万6474(2000)。周囲を山に囲まれ、北部には大屯(だいとん)山、七星(しちせい)山の群峰からなる大屯火山群があり、西は淡水河を隔てて観音山を望み、南西部に桃園(とうえん)台地が広がる。亜熱帯の気候で、夏季の平均気温が28℃、冬季は平均15℃、盆地の影響で夏は暑い。夏乾冬雨で雨期が長く、年降水量は2100ミリメートル。
[劉 進 慶]
市内10区、市郊6区の計16区で構成され、市内は東の淡水河、南の新店渓(しんてんけい)、北のキールン河に大きく抱えられている。近年の経済発展と人口集中によって道路整備や都市建設が急速に進み、高層ビルが林立し、人と車があふれる近代的な国際都市に変貌(へんぼう)している。台北には新旧二つの顔があり、西の淡水河沿いにある竜山、延平、建成、城中、古亭などの地域は、亭仔脚(ていしきゃく)(渡り廊下)の建物が並ぶ古い台北で、東の中山、松山、大安などの地域は、広い道路と高層建築が林立する新しい台北である。総統府(旧総督府)前の広場と新公園を中心に、周りに行政院以下の中央官庁や金融機関本社ビルが散在し、中正(蒋介石(しょうかいせき))紀念堂が東の一角を占める。台北駅の周辺や南側の中華路西門、重慶南路、北側の延平北路、中山北路などに商店、デパート、レストランなどが密集し、商業中心地となっている。東の中山区、松山区方面には高層住宅のほか、商社など大企業の事務所が集中し、南の古亭区、大安区には台湾大学、台湾師範大学など多くの大学や研究所がある。周辺部の双園、大同、松山、南港には紡績、食品、機械、金属、化学、印刷、電気機械などの工場が密集し、キールンと連なって台湾北部工業地帯を形成している。
[劉 進 慶]
内外交通の要衝で、北東25キロメートルに台湾の海の北玄関キールン港があり、西60キロメートルの桃園に中正国際空港があって、世界各地と結んでいる。台湾縦貫鉄道、北廻(ほくかい)鉄道の発着点で、南北高速道路が市内を通り、松山の台北空港は島内各地の空港と結んでいる。市内交通は主としてバスで、路線が網の目のように通っている。人と自動車が多いため、交通の混雑と排気ガスによる空気の汚染がひどく、大きな問題となっている。また、淡水河の水位が流砂の堆積(たいせき)で高くなり、市内の低地では豪雨による水害がよく起こる。
[劉 進 慶]
文化施設も充実しており、総合大学が6校、単科大学が4校、短大・専門学校が14校ある。歴史博物館、省立博物館、国父記念館のほか、郊外にある故宮(こきゅう)博物院が国際的にも有名で、中国本土から持ち込んだ殷(いん)時代から清(しん)代までの美術品、文献およそ62万点が収蔵されている。スポーツ施設として中正紀念堂、社教館、中華体育館、総合体育場があるほか、新公園、植物園、青年公園、双渓公園、動物園、児童楽園などが市民の娯楽や憩いの場となっている。市内の観光地は、故宮博物院をはじめ竜山寺、指南宮、孔子廟(びょう)、植物園、総統府、中正紀念堂、円山飯店などがある。北西16キロメートル大屯山山麓(さんろく)の陽明山、新北投(しんほくとう)は有名な温泉、景勝の地である。西22キロメートルの淡水にスペイン人が築いたセント・ドミンゴ城跡があり、海に面し観音山を望んで美しい。また南11キロメートル新店渓上流にある碧潭(へきたん)、同27キロメートル山中の烏来(うらい)に原住民(中国語圏では、「先住民」に「今は存在しない」という意味があるため、「原住民」が用いられる)タイヤル族の集落がある。
[劉 進 慶]
古くは先住民族の音訳に由来する大加蚋(たいかぜい)(現在の城中)または艋舺(もうこう)(現在の万華)とよんだ。1708年、福建省泉州出身の陳頼章(ちんらいしょう)が先住民族と協約して開拓したのが市の発端である。清の康煕(こうき)年間(1662~1722)には諸羅(しょら)県に所属、同雍正(ようせい)年間(1723~1735)には淡水庁に属し、1875年台北府が設けられるとその治所となり、1894年から台湾省の省都となった。19世紀中ごろ以後は台湾北部の商業中心地に発展し、「一府(台南)二鹿(ろく)(鹿港)三艋舺」と称された。日本の占領後、台北府は台北県に、さらに台北州に改められ、1920年、付近の集落を合併して市制を敷いた。第二次世界大戦後の1967年、中央政府直轄市に昇格、近郊の六つの郷鎮を吸収合併して現在の市域に拡大した。
[劉 進 慶]
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台湾の中心都市。人口264万(2002)。国民党政府の所在地,また経済・文化の中心地である。台北盆地の中心に位置し,気候は亜熱帯性で,2月,15℃,7月,28℃,年平均22℃,年降水量2100mmである。最初の都市的集落は,淡水河と新店渓の合流点にあたる艋舺(もうこう)に発生した。艋舺とは原住民族の言葉で丸木舟の意であり,これはここが山地に住む原住民族と漢族(中国人)との交易所であったことを物語る。同時に淡水河の潮汐作用の限界点であり,満潮を利用すれば海洋渡航のジャンクもここまでさかのぼれたから,中国貿易の河港にもなりえた。しかし,土砂の堆積によって19世紀半ばから河港は2km下流に移った。このように市街地は2ヵ所に形成されたが,それを結んだのが1885年(光緒11)に建設された台北府城であった。台湾が日本の植民地となった95年以後,城内は官庁,銀行,会社の集まるビジネス・センターとなり,台北市の中枢部の役割をはたすようになる。また日本の支配時代,城壁が取り払われて市街の近代化が進み,台北は台湾の政治・経済・文化の中心地となって大きく発展した。
第2次世界大戦後,台北の発展はとくに顕著になった。市街は周辺に向かって拡大し,中和,永和,板橋,新荘,三重などの衛星都市を合わせれば,台北盆地の大部分が市街地でおおわれるようになっている。市内には台湾大学や師範大学をはじめ,故宮博物院,歴史博物館,図書館,動物園,植物園などの研究・文化施設がととのっている。工業化も進み,淡水河対岸の三重市を中心に金属,機械,紡織,食品などの生産が増大した。市の北方には大屯火山群がそびえ,山腹の陽明山,山麓の北投には温泉が湧出して保養地となっている。台北は交通の要地でもあり,縦貫鉄道や縦貫高速道路が通るほか,市街の東部には島内用空港,西郊の桃園には国際空港がある。
執筆者:西村 睦男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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