松石安治(読み)マツイシ ヤスハル

20世紀日本人名事典 「松石安治」の解説

松石 安治
マツイシ ヤスハル

明治・大正期の陸軍中将



生年
安政6年5月21日(1859年)

没年
大正4(1915)年5月25日

出身地
筑後国三河村(福岡県)

学歴〔年〕
陸士〔明治16年〕卒,陸大〔明治23年〕卒

経歴
明治23年陸軍大学校卒業後、参謀本部に配属され、川上操六参謀次長に才幹を激賞される。33年軍事研究のためドイツに留学。35年帰国、陸大教官となる。日露戦争直前には朝鮮に派遣されて対露作戦の予備工作に携わり、開戦後は第一軍参謀副長、大本営参謀として作戦計画従事。戦後、参謀本部第二部長、第一部長を務めて陸軍の将来を担う人材と目されたが、43年満州出張中に宿舎のオンドルの故障によりガス中毒に罹り、重態となった。大正3年陸軍中将に昇進。その後も療養を続けたが、4年死去した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「松石安治」の解説

松石安治

没年:大正4.5.25(1915)
生年:安政6.5.21(1859.6.21)
明治期の陸軍軍人。福岡県の松石兵蔵の4男。明治16(1883)年陸軍士官学校,23年陸軍大学校を卒業後,参謀本部へ配属。その卓越した才能は参謀次長川上操六に称賛され,33年には軍事研究のためドイツへ派遣,帰国と同時に陸大教官に抜擢された。日露戦争直前に朝鮮に渡り対露作戦の準備工作に取り組む。開戦以後は第1軍参謀副長,大本営参謀として数多くの作戦計画をたてた。のち陸大幹事を経て42年12月参謀本部第1部長へと進む。宇都宮太郎と並び将来の陸軍を背負う人物と目されたが,43年満州(中国東北部)への出張中に,宿舎で温突が原因のガス中毒にかかり,療養中に死去。この間大正3(1914)年に中将,予備役。

(山崎有恒)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松石安治」の解説

松石安治 まついし-やすはる

1859-1915 明治-大正時代の軍人。
安政6年5月21日生まれ。明治33年ドイツに留学,36年帰国して陸軍大学校教官。日露戦争では第一軍参謀副長,大本営参謀として作戦計画をたてる。参謀本部第一部長などをつとめ,大正3年陸軍中将。大正4年5月25日死去。57歳。筑後(ちくご)(福岡県)出身。陸軍大学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「松石安治」の解説

松石 安治 (まついし やすはる)

生年月日:1859年5月21日
明治時代;大正時代の陸軍軍人。中将;参謀本部第1部長
1915年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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