板山村
いたやまむら
[現在地名]阿久比町板山
近世の阿久比郷の東北部を占める山間で、阿久比川の支流福山川に沿って集落が形成される。「寛文覚書」によれば、概高二九七石余、田地一七町四反八畝余、畑地一町九反六畝余、戸数三七、人口二一〇。将軍上洛・朝鮮使節通行の時東海道鳴海宿などへ人馬を出すとある。「徇行記」によれば、新田高一九石余があり、「小百姓ハカリニテ貧村」で、耕地が乏しいため農閑期には酒造の杜司や開墾・土木工事に従事する黒鍬稼が二〇人ほどある。
板山村
いたやまむら
[現在地名]高遠町大字長藤
藤沢川の左岸の山裾の村で北は中村、対岸は野笹村に接し、東は小豆坂の峠を越えれば山室村に達する。
板山の初見は天正二年(一五七四)の栗原信盛等連署状(藤沢文書)で「板山御恩地拾壱貫余之所」「板山孫左衛門尉」などとある。
板山村
いたやまむら
[現在地名]大島村板山
南西は岡村、東は田麦村と境を接する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「直嶺分板山村 下」とあり、本納九石九斗・縄高三二石六斗八合、家三軒・一一人。正保国絵図では高三七石余。天和三年郷帳では高四五石八斗余、うち山高一石一斗・漆高四斗九升・青苧高一石七斗二升六合。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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