柏崎町(読み)かしわざきまち

日本歴史地名大系 「柏崎町」の解説

柏崎町
かしわざきまち

[現在地名]柏崎市中央ちゆうおう町・学校がつこう町・西本にしほん町一―三丁目・諏訪すわ町・東港ひがしみなと町・西港にしみなと町・新花しんはな町・東本ひがしほん町一―三丁目・新橋しんばし小倉おぐら町・さかえ町・大和やまと

北陸道の宿駅。日本海に川が注ぐ河口に発祥した町。柏崎の名は、モチガシワの木が群生した岬の意と伝える。「白川風土記」によると、「准后記」に木曾義仲が「越ノ丸、丸ノ長花蔵」という「柏崎ノワタリ」に物資の輸送を命じたとある。建治二年(一二七六)三月日の光日房御書(昭和定本日蓮上人遺文)によると、文永一一年(一二七四)二月一四日、赦免された日蓮は同年三月一四日佐渡国を発ち、同月一五日寺泊てらどまり(現三島郡寺泊町)に着く予定が、大風に流されて「かしはざき」に着いたとある。また「一遍上人絵伝」には「柏崎」逗留の他阿真教が記される。鎌倉時代の柏崎の領主と伝えられる柏崎権頭勝長の館跡はしま町にあり、鵜川の河口に近いことから、柏崎氏は花蔵のような港津の支配に関係ある人物と推定される。なお柏崎殿の妻が狂女となって柏崎から信濃善光寺までの道行を語る謡曲「柏崎」のモデルや舞台は、鎌倉期に成立していたものと思われる。「梅花無尽蔵」に、長享二年(一四八八)僧万里集九は宇佐美孝忠に鑑湖詩を贈り、「柏崎市場之面三千余家、其外深巷凡五六千戸」と記す。文明一八年(一四八六)尭恵の「北国紀行」には府中ふちゆう(現上越市)より当地に着き、「梢もる露は聞ともかしは崎下はに遠き秋のむらさめ」と詠み、同年道興准后は「廻国雑記」に「をしなべて秋風ふけば柏崎いかが葉もりの神はすむらむ」と詠んでいる。

正平七年(一三五二)正月日の宇都宮公綱(カ)軍忠状写(小田部庄右衛門氏蔵)によると、同六年一一月二〇日に足利尊氏の党宇都宮公綱の兵が「越後国柏崎」で合戦しているが、相手は不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報