柏野
かしわの
古くは「かへの」といい、紫野・蓮台野の南に続く広野で、西を紙屋川(天神川)が貫流する。「山城名勝志」に「柏野、千本五辻辺云云、今引接寺前町云
柏野町
」とある。
「日本後紀」延暦二二年(八〇三)八月一七日条に、桓武天皇が「遊
猟柏野及水生野
」とみえる柏野は、水生野(現大阪府三島郡島本町)との位置関係から判断して別個のものか。「新撰六帖」に
<資料は省略されています>
の歌を収め、禁野としての紫野が柏野を含んでいたことも知られる。
柏野
かしわの
現上柏野町・荒屋柏野町・下柏野町・小上町一帯に比定される中世の所領単位。白山本宮神主職を世襲する上道氏の庶流に柏野氏があり(「神官上道家系譜」白山比
神社文書)、当地との関係が推定される。ただし柏野氏は始祖の氏綱の段階ですでに小松に在住しており、氏寛以後は「越中住」とあるので(同系譜)、早くに本貫地を離れていたとみられる。嘉禄二年(一二二六)九月七日、柏野二郎大夫氏綱・子息弥太郎氏寛(氏広)・小大夫氏利らが、豊田光成入道成舜の米丸保地頭職補任にかかわる訴訟について不満をもち、近江延暦寺に訴えるため白山本宮の神輿を敦賀津付近まで発向させている。安貞二年(一二二八)四月八日の本宮などの臨時祭礼の際には「白山神官渡人」として柏野太郎氏実、「剣神官渡人」として柏野小大夫が参加している(白山宮荘厳講中記録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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