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光明天皇 こうみょうてんのう

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美術人名辞典の解説

光明天皇

北朝第二代の天皇。後伏見天皇の皇子。母は広義門院。兄は光厳天皇。名は豊仁。足利尊氏の擁立で即位。崇光天皇に譲位し、院政を開始。南朝の京都進出により吉野・河内などを転々とした。日記『光明天皇宸記』。康暦2年(1380)崩御、60才。

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デジタル大辞泉の解説

こうみょう‐てんのう〔クワウミヤウテンワウ〕【光明天皇】

[1321~1380]北朝第2代天皇。在位、1336~1348。後伏見天皇の皇子。名は豊仁(ゆたひと)。足利尊氏(あしかがたかうじ)が幕府創立とともに擁立。崇光天皇に譲位後は院政を行った。

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百科事典マイペディアの解説

光明天皇【こうみょうてんのう】

後伏見天皇皇子。北朝第2代。足利尊氏の擁立で,1336年に即位。後醍醐天皇もこの即位をいったんは認めたものの,大和吉野へ潜幸して自らの皇位の正当性を主張,以後50余年の南北朝の対立が現出される。
→関連項目湊川の戦

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

光明天皇 こうみょうてんのう

1322*-1380 南北朝時代,北朝第2代天皇。在位1336-48。
元亨(げんこう)元年12月23日生まれ。後伏見天皇の皇子。母は藤原寧子(広義門院)。光厳(こうごん)天皇の同母弟。足利尊氏に擁立されて即位し,尊氏を征夷大将軍に任じた(室町幕府の開始)。吉野にのがれた後醍醐(ごだいご)天皇が南朝をひらき,南北朝対立の時代となる。北朝が一時南朝に屈した(正平(しょうへい)一統)直後仏門にはいった。康暦(こうりゃく)2=天授6年6月24日死去。60歳。墓所は大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)(京都市伏見区)。諱(いみな)は豊仁(とよひと)。法名は真常恵,真恵。別名に持明院殿,宇治殿。日記に「光明院御記」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

光明天皇

没年:康暦2/天授6.6.24(1380.7.26)
生年:元亨1.12.23(1322.1.11)
北朝第2代の天皇。父は後伏見天皇,母は前左大臣西園寺公衡の娘寧子(広義門院),光厳天皇は実兄。名は豊仁。建武3/延元1(1336)年6月,足利尊氏が楠木正成らを破り,後醍醐天皇延暦寺に逃れた。この機に当たり,尊氏は光厳上皇に奏請し弟豊仁親王を践祚させたのである。一方,後醍醐天皇は吉野に遷幸し南北朝並立の時代となった。こうした中,光明天皇は,貞和4/正平3(1348)年,光厳上皇の皇子益仁親王に譲位し崇光天皇を誕生させた。しかし,文和4/正平10(1355)年に足利尊氏が南朝に降伏するに至り北朝が廃されると,仏門に入った。法名を真常恵という。のち光厳,崇光両上皇と共に南朝の拠点,吉野,河内などを転々と移されたが,帰京後は仏門に帰依する生活を送り大和国(奈良県)長谷寺で崩じた。自筆の日記『光明天皇宸記』が残されている。<参考文献>肥後和男『歴代天皇紀』

(小森正明)

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世界大百科事典 第2版の解説

こうみょうてんのう【光明天皇】

1321‐80(元亨1‐天授6∥康暦2)
北朝第2代の天皇。在位1336‐48年。後伏見天皇の第9皇子。名は豊仁。1336年(延元1∥建武3)後醍醐天皇に反した足利尊氏に擁立された。実際の政務は兄光厳上皇の院政によって行われ,48年(正平3∥貞和4)に上皇の皇子崇光天皇に譲位した。51年(正平6∥観応2)足利尊氏・義詮が南朝に降伏し,崇光天皇が廃されると,世の無常さから出家した。その後,南朝により賀名生(あのう)・金剛寺に幽閉され,55年(正平10∥文和4)帰京,洛南の深草金剛寿院に住んだ。

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大辞林 第三版の解説

こうみょうてんのう【光明天皇】

1321~1380) 北朝第二代天皇(在位1336~1348)。名は豊仁。後伏見天皇の皇子。足利尊氏に擁立され、光厳天皇のあとを受けて即位。崇光天皇に譲位し、院政を行なった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

光明天皇
こうみょうてんのう

[生]元亨1(1321).12.23. 京都
[没]天授6=康暦2(1380).6.24. 大和
北朝第2代の天皇 (在位 1336~48) 。名は豊仁,法名真常恵。後伏見天皇の第2皇子,光厳天皇の同母弟。母は広義門院藤原寧子。建武中興の挫折後,足利尊氏が挙兵し上洛したが敗れて九州に遁走,延元1=建武3 (36) 年再挙をはかり,天下に号令する方便のため,光厳上皇の院宣で豊仁親王を迎えて践祚を仰いだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

光明天皇
こうみょうてんのう
(1321―1380)

北朝第2代の天皇(在位1336~48)。名は豊仁(とよひと)。法名真常恵。後伏見(ごふしみ)天皇の第2皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。光厳(こうごん)天皇の弟で、その猶子(ゆうし)となった。建武中興(けんむのちゅうこう)崩壊ののち、足利(あしかが)氏に擁せられて皇位につき、のちこれを崇光(すこう)天皇に譲った。1351年(正平6・観応2)における南朝後村上(ごむらかみ)天皇の天下一統に際して出家し、幽閉の身となり、光厳、崇光両上皇らとともに南朝根拠地の大和(やまと)(奈良県)賀名生(あのう)および河内(かわち)(大阪府)天野(あまの)の金剛寺に数年間を過ごした。のち京都郊外の伏見に帰還、同地の保安寺、金剛寿院また大光明寺に居住し、その後所々を経、晩年大和の長谷(はせ)寺に居住し、康暦(こうりゃく)2年6月24日摂津の勝尾(かちお)寺で崩御。御陵は京都市伏見区桃山の大光明寺陵。[村田正志]

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