染谷村
そめやむら
[現在地名]境町染谷
一ノ谷沼(現在は水田)の東に所在。西方以外は台地に続くが、一ノ谷沼のヤトの一部が中央に入る。北は大歩村。南北に長い村で、北部に平地林を有する。倉持家・斎藤家の墓所より板碑が二〇基ほど出土し、応永一〇年(一四〇三)・嘉吉二年(一四四二)・同三年・文明二年(一四七〇)などの年号が刻まれる。戦国時代では落民士帳(忍田家文書)に、結城氏朝の家臣として、当地の斎藤内記・高橋左京の名がみえる。
江戸時代は下総関宿藩領で、「寛文朱印留」に村名がみえる。
染谷村
そめやむら
[現在地名]石岡市染谷
竜神山の東、恋瀬川左岸にあり、北は村上村。中世は北郡に属し、年未詳の福戸・森木氏等知行分田地注文断簡(総社文書)に「福戸殿知行之分」として、「一染谷内 三反半 宮部律師御房」「一染谷内 五反 一分藤七分」「一染谷内 五反 卿阿闍梨御房」「一染谷内 二反 花薗道場分」とある。江戸初期に府中藩領となり、寛永三年(一六二六)旗本皆川氏領となる(府中雑記)。
染谷村
そめやむら
[現在地名]大宮市染谷
大和田片柳支台の東側にあり、北・東・南を加田屋新田の低地に囲まれる。同新田を隔てて東方に当村の者が開発した新染谷村(染谷新田、現浦和市)がある。南部領に属した(風土記稿)。田園簿では田四石余・畑三七石余、幕府領(一〇石余)・岩槻藩領(一〇石余)・旗本朝比奈領(二一石余)、ほかに常泉寺領一〇石がある。当村と新染谷村は史料上分別がきわめて困難となっている(浦和市の→新染谷村)。寛文元年(一六六一)旗本伏見氏は染谷村の内で一〇石余を与えられているが(「伏見領地頭所引替書付控」萩原家文書)、この染谷村が当村のことかは断定しがたい。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳に載る染谷村高一五一石余は新染谷村か、当村の岩槻藩領分を合せたものか不明。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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