柱本村(読み)はしらもとむら

日本歴史地名大系 「柱本村」の解説

柱本村
はしらもとむら

[現在地名]高槻市柱本一―七丁目・柱本南はしらもとみなみ町・柱本新はしらもとしん町・柱本など

三島江みしまえ村・西面さいめ村の南にあり、あくた川の淀川流入口南方の淀川右岸に位置する。淀川沿いに大坂街道が通り、西の村境は島下しましも鳥養とりかい諸村(現摂津市)、東・南は淀川を挟んで河内国茨田まんだ木屋こや村・太間たいま(現寝屋川市)出口でぐち(現枚方市)

「台記」久安四年(一一四八)三月二一日条に「宿柱本辺、今夜密召江口遊女於舟中」とみえ、淀川河津の一であった。柱本が港湾集落として登場するのは院政期になってからで、「山槐記」治承四年(一一八〇)七月一八日条に「未剋於古河乗船、於今津日入、秉燭之後、留船於柱本差饌、月出々船」とあり、柱本付近は今津ともよばれた。「古今著聞集」巻一二の「後鳥羽院強盗の張本交野八郎を召取らるる事」、巻一六の「中間法師山伏鋳物師同宿し山伏偽りて遊女を侵し後朝争論の事」にみえる今津も柱本のことと考えられるが、単なる泊津ではなく乗継ぎの船宿もあったことは、治承四年七月の涸水期に福原ふくはら(現神戸市兵庫区)から上った中山忠親が鳥養から柱本まで輿で進み、柱本で再び乗船していること(「山槐記」同月二二日条)からうかがわれる。「柱下」とも記された(「吉記」治承四年一一月二五日条)。元弘二年(一三三二)五月、楠木正成赤坂あかさか(現南河内郡千早赤阪村)落城後初めて挙兵し、渡辺わたなべ(現東区)に陣を取って京都攻略を予告した。これに対し六波羅方では在京ならびに近国の兵五千が同月二〇日に布陣をするが、その一所「柱松」は当地である。渡辺橋合戦で敗北後、六波羅方は再び宇都宮治部大輔を天王寺てんのうじ(現天王寺区)に向かわせたが、その途次も「柱松」に陣を取っている(「太平記」巻六楠出張天王寺東付隅田高橋并宇都宮事)。のち河津としての機能はしだいに消滅した模様で、後背に展開した集落に根拠をもつ国人層柱本氏が現れる。所領としては、「柱本堀跡散在名田畠」が永徳三年(一三八三)五月二八日付で足利義満によって山城嵯峨宝幢ほうどう寺鹿王院に寄進されたりしている(鹿王院文書)。「永禄以来年代記」によると、永禄五年(一五六二)三月、畠山高政らの河内飯盛いいもり(現大東市)攻めののち、三好長慶の軍勢は「摂州鳥養柱本ヨリ為後巻打出」、教興寺合戦に及んでいる。

柱本村
はしらもとむら

[現在地名]北方町柱本

北方村の南に位置し、糸貫いとぬき川東岸の平坦地に立地。慶長一四年(一六〇九)の検地で北方村から分離したという(年代古記録)が、正保郷帳までは北方村の内。この間の寛永一二年(一六三五)加納藩の内検では北方村と並んで柱本分高四三四石余と記される(本巣郡誌)。寛文一一年(一六七一)加納藩の柱本村検地帳(木野村文書)によれば、高四三五石余、反別三五町三反余で、うち北方地下・北方町方より越地分一町余があった。元禄郷帳に村名がみえ、加納藩領で高四三四石余。その後幕府領となって宝暦五年(一七五五)大垣藩預となり、享和三年(一八〇三)以降陸奥平藩領。明和八年(一七七一)の村明細帳によれば田三一四石余・反別二四町三反余、畑九四石余。

柱本村
はしらもとむら

[現在地名]橋本市柱本

河内国との境、紀見きみ峠の麓にある。高野街道に沿って家や茶店が並び、慶安元年(一六四八)には伝馬所が設けられ往来の人々で賑った。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書によれば、相賀大おうがだい神社八月放生会に柱本村は米一斗を納めている。慶長検地高目録による村高二〇九石余、小物成三斗三升。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数四七(役家一四など)、人数一五三、牛九、小物成は紙木三三束、桑五二束、茶六斤。またほかに紀見峠新家を記す。近世後期までには当村の家数一一四、人数三八三と増大しており(続風土記)、街村として発展したことがわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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