柴野村
しばのむら
[現在地名]高岡市柴野
八口村の西に位置。南は麻生谷村。柴野十日市村などとも称された。小矢部川はしばしば氾濫したが、枝村の十日市周辺は芝草が茂っていたため、その影響を受けることがなかったといい、芝野から柴野に変わったという。「越中志徴」によれば、文禄三年(一五九四)二月の御印書に「十日いちしばの村百しやう中」、前田利常御印書に「十日市村又兵衛」とみえる。十日市は氷見道に沿い、毎月一〇日に市が開かれたという(続高岡史話)。正保郷帳では高五七八石、田方二九町二反余・畑方九町三反。続いて十日市村も高付され、新田高三六石余、田方五二町三反余・畑方四町。
柴野村
しばのむら
[現在地名]余目町堀野
北流する北楯大堰の東岸にある。上下二村からなり、余目新田村の東に上村(現上堀野)があり、その北に下村(現下堀野)がある。東を最上川が北流する。芝野村とも書いた。元和九年(一六二三)廻館村の飛地として開発されたのに始まり、上村を元村として北に開拓を進め下村が成立したと伝える。寛永元年庄内高辻帳に村名がみえ、高一五〇石余。正保郷帳では田方一五七石余・畑方一七七石余、ほかに新田がある。慶安二年(一六四九)松山藩領に分知時の高一二〇石余(大泉紀年)。寛保四年(一七四四)の松山領分土目録(松山町資料館蔵)によれば免三ツ五分、ほかに一歩肝煎給とある。
柴野村
しばのむら
[現在地名]本荘市内越 川口
芋川東岸の平野部にあり、南は川口村、北に畑谷村、芋川対岸は大浦村。
正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)に一八五石二斗一升六合とあり、畑が一四石余で、ほとんどが田であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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