日本歴史地名大系 「川口村」の解説
川口村
かわぐちむら
北上川に
川口村
かわぐちむら
- 東京都:八王子市
- 川口村
川口川中流域に立地。東は
川口村
かわぐちむら
西部の
戦国時代後期に北畠氏の支配下に入る。
川口村
かわぐちむら
河口湖の北東岸にある。東は
〔中世〕
弘安五年(一二八二)九月八日
近世には御師が軒を連ね、
川口村
かわぐちむら
- 山形県:上山市
- 川口村
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
現鮭川村の南端、大きく蛇行しながら南流する鮭川と支流
川口村
かわぐちむら
福山湾内に注ぐ
川口村
かわぐちむら
- 富山県:新湊市
- 川口村
庄川下流右岸、
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
- 高知県:土佐清水市
- 川口村
天正一八年(一五九〇)の以南川口村地検帳によれば検地面積三九町八反余、屋敷数七六、うち居屋敷五七。屋敷のうちには正善寺・直指庵・善住庵・薬師堂・慶善庵が含まれ、ほかに地蔵堂・白王宮がみえる。中世名の名残である二ノ名―八ノ名、拾ノ名の数詞名と散田分にその大半が占められる。
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
川口村
かわのくちむら
川口村
かわぐちむら
- 秋田県:本荘市
- 川口村
川口村は由利郡内で亀田藩に二村、本荘藩に一村ある。亀田藩内の二村は元禄一五年(一七〇二)の出羽国由理郡郷村高辻帳に「内越之内」「岩谷之内」と区別されている。「内越之内」と記される川口村は、本荘藩領川口村と隣合せていた。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図によれば川口村のすぐ北に
川口村
かわのぐちむら
緑川の左岸、
川口村
かわぐちむら
- 静岡県:天竜市
- 川口村
二俣村の南西、天竜川中流域左岸に位置する。寛政(一七八九―一八〇一)頃まで当村南を二俣川が西流して、西端で天竜川に注いでいた。二俣城(城山)とは地続きである。天正一七年(一五八九)二月二八日の屋敷帳(田代家文書)によれば、徳川家康は「川口」の舟越(舟頭)二名に筏乗免として畠八反二六歩・屋敷三八八坪を与えている。慶長一六年(一六一一)の御縄之写(天竜市役所蔵)によると、反別一町五反余・分米八石余、筆数二〇、屋敷の名請人三。
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
寛永二年(一六二五)の油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写に高一五〇石三斗五升四合、納米八二石六斗九升五合、免五ツ五分とある。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)には一二三石五斗九升六合とあり、そのうち畑は二石五合で、「水損所 はへ山有」とあり、林の多い山に囲まれていた。元禄一五年(一七〇二)の出羽国由理郡郷村高辻帳に「岩谷之内」と記され、高一五〇石三斗五升四合とある。亀田藩には川口が二村あるので、この記述がなされたと思われる。
近世中期の様子は不明だが、おほさ沢・
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
- 愛知県:西尾市
- 川口村
市のほぼ中央南に位置し、悪水路
川口村
かわぐちむら
西流する川口川の扇状地にあり、川の両岸に集落がある。南は
新庄古老覚書によれば、天正一八年(一五九〇)戸沢氏の支城が破却され、その中に川口の名がある。「梅津政景日記」元和六年(一六二〇)閏一二月二六日条に「仙北長したの内、川口村」とあり、一帯を
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二二八石とある。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に本田当高二三二石余、本田並当高九六石余、新田当高九二石余で、合計当高四二一石五斗三升八合とある。
川口村
かわぐちむら
- 埼玉県:加須市
- 川口村
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
東を
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
- 埼玉県:川越市
- 川口村
鹿飼村の北西、
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
川口村
かわぐちむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報