桃川村(読み)ももがわむら

日本歴史地名大系 「桃川村」の解説

桃川村
ももがわむら

[現在地名]神林村桃川

河内かわうち村山間より流れる川と桃川峠谷間より流れる川が合流して西へ流れるひやつ川の河岸段丘上とその氾濫原にある。西方平地が広がる。村内を村上・岩船(現村上市)より小国おぐに(現山形県西置賜郡小国町)方面へ通じる女川おんながわ道が通る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図では、桃川(百川)は西方の牧目まきのめ村・九日市ここのかいち村間を流れて岩船潟へ流入している。元弘四年(一三三四)二月一八日の色部長倫譲状写(「古案記録草案」所収文書)によれば、長倫から一期を限り女子千歳へ譲られた小泉こいずみ色部いろべ条内の田五反のうちに「桃河兵衛二郎屋敷」がみえる。文安元年(一四四四)一〇月一三日付の諸上しよじよう(現村上市)に宛てた色部末長証状案写(同文書)には「開山寺領桃川ニ五百苅」が同寺領として打渡されている。同証状には「桃川雲洞庵分」「桃川・浦両人」ともみえる。当地名を名乗る桃川氏は色部氏家臣となった。天文一〇年(一五四一)七月二七日の鮎川家中連署起請文(色部氏文書)に色部家臣の中に桃河平八郎の名がみえる。永正六年(一五〇九)九月一一日の耕雲寺領納所方田帳(耕雲寺文書)には「桃川弥平四郎 一貫百五十地江副三百苅 洲崎殿之分 九百地川上田二百苅 町殿之分」などとある。天正―慶長(一五七三―一六一五)頃の色部氏年中行事(色部文書)には桃河右馬之丞・桃河備後守・桃河次郎左衛門尉・桃河殿がみえ、このうち桃河殿を除く三名は正月に色部惣領に出仕している。「桃河之御百姓四人半名」の存在がみえ、「しゆたうの米」として白米一俵ずつ・黒米二斗ずつ計五斗が桃川の百姓衆より納められ、桃川の半名よりは白米一斗五升・黒米一斗が上げられる。また毎年一二月一三日の畳替えの際には「壱人いたし候て、三まいうら四条つゝ、うらこもあけ申候、こもくさにて候」とある。


桃川村
もものかわむら

[現在地名]伊万里市松浦町桃まつうらちようももかわ

北流する松浦川を中央にして、西部の丘陵と東部のまゆ(五一八メートル)の山麓からなり、桃ノ川盆地の中心である。伊万里道の宿場。北部の下分しもぶん、南部の上原うわばる、西部の下平しもひら、川東の東分ひがしぶんの四字からなる。慶長絵図には「桃川村 梅野ノ内」と記され、提川さげのかわ村とともにもと杵島きしま郡。

桃川とは松浦川のこの地における呼称で、郷村帳には桃川また桃野川とあり、「広さ拾七間深凡三―四尺水下石」とか、「広七間深凡二―三尺石川飛石あり」などと書かれている。

下分字館中山たつちゆうやまに「葉隠」の山本常朝の祖父中野神右衛門の供養碑(板碑)があり、浄通じようとうさんの名で祀られている。


桃川村
ももがわむら

[現在地名]一宮町江井えい

多賀たが村の西にある。北流する浜田はまだ川)を挟んで東は東桃川ひがしももがわ、西は西桃川とよばれる。東方柳沢やなぎさわ村境を川が北へ流れる。天正一四年(一五八六)一一月三日の羽柴秀吉知行方目録に「もゝ川」とあり、高三五一石余、脇坂安治領となっている。また同日付の淡路国御蔵入目録には「桃川之内」二九石が記される。正保国絵図には桃川村とあり高五五三石余、ほかに桃川のうちとして江井浦を記す。この間天正一八年には島外より来住した伊郷清兵衛により主として西桃川を中心に開発が進められた。元和年間(一六一五―二四)には播磨国より奥村氏が来住、東桃川を中心に開発を行った。これにより寛永四年(一六二七)までに田畠合計三町八反余が開かれた(江井郷土誌)。元禄一六年(一七〇三)検地帳(広田家文書)によれば田畠枚数は四千五〇五株(枚)、田高一千二四八石余・反別六六町六反余、畠高三五五石余・反別四四町二反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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